今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 一週間後、航志朗が運転する車で安寿はあるところに向かった。

 車を降りると頬に触れる空気はまだ冷たい。航志朗はトランクから二つのシルバーのスーツケースを取り出した。白い息を吐きながら玄関から屋敷の中に入った安寿は、日本画と油絵の画材を胸に抱えて奥の広間に向かった。

 安寿と航志朗は黒川家にやって来た。安寿が言い出したのだ。「海外に行く前に、あの襖絵を完成させる」と。ふたりが黒川家を訪れるのは昨年の夏のあの夜以来だ。

 ひとりで安寿は屋敷の奥へと足を進めた。まったく恐れを感じない。今の安寿は未完成の襖絵のこと以外は何も考えられなかった。

 広間に入ると、着物をまとった黒川が畳の上にあぐらをかいていた。

 「ん?」

 足音に気づいて振り返った黒川は絶句した。

 「あ、……安寿!」

 何も言わずに安寿はしゃがんで正座すると手をついて頭を下げた。

 「お久しぶりです、皓貴さん。私の襖絵を完成させるために参りました」

 すっと安寿は立ち上がると畳の上に画材を広げ始めた。黒川が何かを言おうとすると、廊下の奥から騒々しい音が鳴り響いて近づいて来た。苦々しく黒川は顔をしかめた。無遠慮に二つのスーツケースを両手で引いて、航志朗がやって来たのだ。あきれ返った黒川に航志朗が何食わぬ顔で言った。

 「皓貴さん、ごぶさたしております。安寿が襖絵を描き終えるまで、こちらに滞在させていただきます。大変お手数ですが、三度の食事と風呂、それから布団の用意をお願いします。……あ、布団は一組で結構です」

 にやっと不敵に笑った航志朗は、膠液を作り始めた安寿を面白そうに眺めた。

 黒川は怒気を含んだ口調で文句を言った。

 「なんなんだ、いきなりふたりで押しかけて来て!」

 「だって、アポイントメントは必要ないですよね。俺たちは、皆きょうだいなんですから」

 日本画を描くのは昨年の夏以来だが、安寿の筆さばきは舞うように滑らかだ。安寿のそばに座った航志朗が、安寿が必要としている色を的確に梅皿にのせる。航志朗の加勢にさらに安寿は思いのたけを筆にのせて、持てるすべての力を襖絵に向かわせた。隣には航志朗が一緒にいて見守ってくれている。何も怖いものはない。

 安寿は筆を振るい続けた。着実に安寿のなかにある森の光景がその全貌を現していった。

 定期的に黒川家から食事が提供された。豪華すぎるメニューだった。安寿は岩絵具がついた手で箸を持ち、あっという間に自分の分を平らげると、すぐに襖絵の前に戻った。

 夜になると安寿は黒川家の檜風呂を心ゆくまで楽しんだ。航志朗は安寿と一緒に風呂に入りたかったが、即座に断られて肩を落とした。布団は二組用意してあった。当然、航志朗は速攻で安寿が横になった布団にもぐり込んだが、すでに安寿は深い寝息をたてて眠りに落ちていた。切なそうにため息をつきながら、航志朗は安寿の背中にぴったりと身を寄せて思った。

 (安寿は絵に没頭すると、すっかり俺の存在を忘れるよな……)

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