今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 程なくして森の襖絵が完成した。最後に安寿は古閑家の襖絵に使った瑠璃色の天然岩絵具の残りを全部使って、黒川家の襖絵のすみに父が最期を過ごした部屋の襖に描いたものと同じルリハコベの花を描き加えた。

 ほっとした表情で安寿は肩を落としてつぶやいた。

 「……できた」

 「うん。素晴らしい襖絵だ。よくやったな、安寿!」

 後ろから安寿を抱きしめて航志朗は襖絵を感慨深く見つめた。

 さっそく航志朗は腰を浮かして帰り支度をしようとした。だが、安寿は顔を上げて広間の天井をじっと見つめている。ずっと安寿が襖絵を描く後ろ姿を離れたところで見ていた黒川が何か言いかけた。

 「安寿、なんて君は……」

 安寿は振り向いて黒川に言った。

 「皓貴さん、脚立を貸してください」

 「……脚立?」

 こくんと安寿は黒川に向かってうなずいた。

 おずおずと黒川家の初老の庭師が脚立を運んで来た。安寿は庭師に広間の中央に設置するように頼んだ。不思議そうに安寿を見てから、庭師は脚立を広げて固定した。三人の男の前で安寿は注意深く脚立に登ると、手を伸ばして天井に触ろうとしたが届かない。安寿は落ち着かない様子の庭師にまた頼んだ。

 「お手数ですが、もっと高い脚立を貸してください。天井に手が届く脚立を」

 首をかしげた庭師はさらに大きいサイズの脚立を持って来て広間の中央に置いた。安寿はまた脚立に登って天井に手を伸ばした。今度は余裕で手が届いた。呆然と立ち尽くした三人の男の前で、安寿は父の油絵具を取り出して、白と青の油絵具を手のひらに直接絞り出すと木製の天井板に素手で塗り始めた。

 三人の男たちはあぜんとして安寿を見上げた。やがて、航志朗が腹を抱えて大笑いした。

 安寿は涙をにじませて笑っている航志朗を見下ろして足元をふらつかせた。「危ない、安寿!」と叫んだ航志朗はすぐに脚立に登って、安寿の腰に手を回して支えた。航志朗に微笑みかけた安寿は、無垢な瞳で夢中になって素手で天井にのびのびと油絵具を塗った。──大空の絵だ。

 目を細めた航志朗が安寿の絵具まみれの手のひらに自分の手をこすりつけてから、嬉々として天井に手を触れた。安寿と航志朗は戯れながら歓喜の声をあげて一緒に天井に向かって絵を描いた。

 庭師が困惑した顔で黒川を見上げて恐る恐る尋ねた。

 「あの、ご当主、よろしいのでしょうか」

 腕組みをした黒川があきれ返った様子でつぶやいた。

 「まったく、僕の血筋はとんでもないな……」

 安寿と航志朗は抱き合いながら天井に手で空の絵を描いた。どこまでも広がる大空の絵を。

 再び黒川を見上げた庭師はたちまち仰天した表情になった。今年還暦を迎えた庭師は、四十年間も黒川家の庭師として務めてきた。黒川のことは子どもの頃から知っている。庭師はこれまで一度も黒川が笑ったところを見たことがなかった。その黒川が、今、目の前で笑顔になっている。庭師は小さな子どもが無邪気に遊ぶように天井に色を塗っている安寿と航志朗を見上げて思った。

 (あのふたり、いったい何者なんだ……)

 そして、三十五年前、新婚旅行で訪れたドイツのドレスデンで見たラファエロが描いたふたりの天使たちを思い出した。

 (もしかしたら、あのおふたり、……天使さまか!)

 亡き祖母の影響で信心深い庭師は思わず安寿と航志朗を見上げて手を合わせた。

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