今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
伊藤は岸のモデルになった愛の送迎をしていた。いつも岸家の黒塗りの車を運転して大学に愛を迎えに行き、愛の自宅の最寄り駅の二つ手前にあるターミナル駅まで送った。
岸家の執事に就任してから伊藤は疲れきっていた。裏表のある岸家の人間関係と岸家が関わる上流社会での応対に神経をすり減らしていたからだ。
愛を車の後部座席に乗せて送り迎えをする時間だけが、当時の伊藤の心の寄りどころになっていた。愛はよく車の窓から空を見上げて言った。「ねえ、伊藤さん、あの雲ってきれいね。まるで海みたい」と。そして、可愛らしく微笑んだ。
伊藤は愛に恋をしていることを自覚していた。だが、画家である主人のモデルだ。愛の告白なんてできるわけがない。さらに愛と岸がひそかに愛し合っていることも伊藤は知っていた。
言いづらそうに伊藤は安寿に語った。
「安寿さま、愛さまと宗嗣さまは愛し合っていました。でも、世間で言うような愛人関係ではありません。なんと申しあげたらよろしいのか……、おふたりは尊敬し合っておられました。お互いの純粋な心を」
ある年の初秋に、突然、伊藤に愛から電話があった。「私はもう岸先生のモデルの仕事はできません」と愛は感情をなくしたかのような乾いた声で言った。その理由を伊藤が尋ねても愛は何も言わなかった。そして、同時期に愛は大学を中退していた。
岸は愛からの一方的な事実上の別れ話を聞いて暗い顔をして深く落ち込むと、一日中アトリエにこもりきりになった。
当然、伊藤は調べた。時をおかずに愛が古閑の子どもを妊娠していることがわかった。その事実を岸に報告すると、岸はこれまでのモデル料を伊藤に用意させた。伊藤はこれ以上深追いをしなかった。愛と生まれてくる子どものために。
無事に愛が女の子を出産したということまでは知っていた。その後、ニューヨークで名前を変えた古閑が破天荒なアーティストとして羽振りを利かせていることを知って、伊藤はがく然とした。てっきり愛と古閑は結婚して幸せな家庭を築いていると思い込んでいたからだ。
そして、その五年後の大雪の日、突然、愛は再び岸家を訪れた。出迎えた伊藤は愛の姿を見てその場に立ちすくみ、岸家の執事として冷徹に応対する適切な言葉が出てこなかった。
久しぶりに会った愛は変わりなく本当に美しかった。寂しげな微笑みを浮かべた愛はその独特な可愛らしい声で伊藤に言った。
「伊藤さん、お願いがあります。宗嗣さんに会わせていただけませんか」
伊藤は目の前の愛の様子にただならない雰囲気を感じた。そして、目を合わせないようにして愛に言った。
「愛さま、大変申しわけございません。ただ今、岸は、……所用で出かけておりまして」
それはまったくのうそだった。岸はその時アトリエで絵を描いていた。
それを聞いた愛は少しも微笑みを崩さずに、何もかも包み込むような優しい声音で言った。
「……そうですか。わかりました。私、宗嗣さんに最後のごあいさつをしに来たんです。伊藤さん、今まで本当にありがとうございました」
愛は伊藤にお辞儀をすると背を向けて、大雪が降るなかを岸家の門に向かって歩いて行った。愛の後ろ姿に違和感を持った伊藤はふと気づいた。愛は傘をさしていなかった。
その時、とっさに伊藤は傘を手に持って愛を呼び止めようとした。だが、そうしなかった。それはなぜだったのか。おそらく岸と自分自身を何かから守るために。
その次の日の朝、伊藤は、愛が岸邸の近くを流れる川で亡くなったことを知った。
伊藤は安寿の前で土下座して大声を張りあげて謝った。
「安寿さま！ 本当に、本当に、申しわけございません！ 私があの時、愛さまをアトリエにお通ししていたら、あんな取り返しのつかないことにはならなかった。安寿さまには、どんなに謝罪してもおわびのしようがありません！」
隣で黙って聞いていた咲が指で涙をぬぐった。
安寿は伊藤に優しく微笑んで言った。
「伊藤さん、お顔を上げてください。もういいんですよ。終わったことです。おそらく母はあの日に寿命を迎えていたんです。だから、伊藤さんのせいではありません」
安寿はかがんで伊藤の冷えきった手を握りしめて、今まで罪の意識に苦しんできた伊藤を穏やかに包み込んだ。
「安寿さま……」
確かに伊藤は安寿の微笑みに、今は亡き愛の慕わしい面影を見つけた。伊藤は安寿の温かい手を握りしめて嗚咽しはじめた。咲が伊藤の背中に身を寄せた。ずっと黙って見守っていた航志朗は、安寿の肩と咲の背中に手を回して家族同然の三人を覆うようにして抱きしめた。
柔らかな微笑みを浮かべる安寿の横顔を見つめて航志朗は思った。
（安寿、俺は君を心から尊敬するよ）
岸家の執事に就任してから伊藤は疲れきっていた。裏表のある岸家の人間関係と岸家が関わる上流社会での応対に神経をすり減らしていたからだ。
愛を車の後部座席に乗せて送り迎えをする時間だけが、当時の伊藤の心の寄りどころになっていた。愛はよく車の窓から空を見上げて言った。「ねえ、伊藤さん、あの雲ってきれいね。まるで海みたい」と。そして、可愛らしく微笑んだ。
伊藤は愛に恋をしていることを自覚していた。だが、画家である主人のモデルだ。愛の告白なんてできるわけがない。さらに愛と岸がひそかに愛し合っていることも伊藤は知っていた。
言いづらそうに伊藤は安寿に語った。
「安寿さま、愛さまと宗嗣さまは愛し合っていました。でも、世間で言うような愛人関係ではありません。なんと申しあげたらよろしいのか……、おふたりは尊敬し合っておられました。お互いの純粋な心を」
ある年の初秋に、突然、伊藤に愛から電話があった。「私はもう岸先生のモデルの仕事はできません」と愛は感情をなくしたかのような乾いた声で言った。その理由を伊藤が尋ねても愛は何も言わなかった。そして、同時期に愛は大学を中退していた。
岸は愛からの一方的な事実上の別れ話を聞いて暗い顔をして深く落ち込むと、一日中アトリエにこもりきりになった。
当然、伊藤は調べた。時をおかずに愛が古閑の子どもを妊娠していることがわかった。その事実を岸に報告すると、岸はこれまでのモデル料を伊藤に用意させた。伊藤はこれ以上深追いをしなかった。愛と生まれてくる子どものために。
無事に愛が女の子を出産したということまでは知っていた。その後、ニューヨークで名前を変えた古閑が破天荒なアーティストとして羽振りを利かせていることを知って、伊藤はがく然とした。てっきり愛と古閑は結婚して幸せな家庭を築いていると思い込んでいたからだ。
そして、その五年後の大雪の日、突然、愛は再び岸家を訪れた。出迎えた伊藤は愛の姿を見てその場に立ちすくみ、岸家の執事として冷徹に応対する適切な言葉が出てこなかった。
久しぶりに会った愛は変わりなく本当に美しかった。寂しげな微笑みを浮かべた愛はその独特な可愛らしい声で伊藤に言った。
「伊藤さん、お願いがあります。宗嗣さんに会わせていただけませんか」
伊藤は目の前の愛の様子にただならない雰囲気を感じた。そして、目を合わせないようにして愛に言った。
「愛さま、大変申しわけございません。ただ今、岸は、……所用で出かけておりまして」
それはまったくのうそだった。岸はその時アトリエで絵を描いていた。
それを聞いた愛は少しも微笑みを崩さずに、何もかも包み込むような優しい声音で言った。
「……そうですか。わかりました。私、宗嗣さんに最後のごあいさつをしに来たんです。伊藤さん、今まで本当にありがとうございました」
愛は伊藤にお辞儀をすると背を向けて、大雪が降るなかを岸家の門に向かって歩いて行った。愛の後ろ姿に違和感を持った伊藤はふと気づいた。愛は傘をさしていなかった。
その時、とっさに伊藤は傘を手に持って愛を呼び止めようとした。だが、そうしなかった。それはなぜだったのか。おそらく岸と自分自身を何かから守るために。
その次の日の朝、伊藤は、愛が岸邸の近くを流れる川で亡くなったことを知った。
伊藤は安寿の前で土下座して大声を張りあげて謝った。
「安寿さま！ 本当に、本当に、申しわけございません！ 私があの時、愛さまをアトリエにお通ししていたら、あんな取り返しのつかないことにはならなかった。安寿さまには、どんなに謝罪してもおわびのしようがありません！」
隣で黙って聞いていた咲が指で涙をぬぐった。
安寿は伊藤に優しく微笑んで言った。
「伊藤さん、お顔を上げてください。もういいんですよ。終わったことです。おそらく母はあの日に寿命を迎えていたんです。だから、伊藤さんのせいではありません」
安寿はかがんで伊藤の冷えきった手を握りしめて、今まで罪の意識に苦しんできた伊藤を穏やかに包み込んだ。
「安寿さま……」
確かに伊藤は安寿の微笑みに、今は亡き愛の慕わしい面影を見つけた。伊藤は安寿の温かい手を握りしめて嗚咽しはじめた。咲が伊藤の背中に身を寄せた。ずっと黙って見守っていた航志朗は、安寿の肩と咲の背中に手を回して家族同然の三人を覆うようにして抱きしめた。
柔らかな微笑みを浮かべる安寿の横顔を見つめて航志朗は思った。
（安寿、俺は君を心から尊敬するよ）
