今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第22章 空の彼方へ
 ひっきりなしに多言語のアナウンスが耳に入ってくる。目の前を大勢の人びとが行き交う。

 スマートフォンを見ながら小走りで先を急ぐビジネスパーソンや小さな子どもを連れた家族連れ、幸せそうに寄り添うカップル、おしゃべりに花が咲く女たちのグループ、イヤホンをしてスマートフォンに見入る女や男。颯爽と背筋を伸ばしスーツケースを引いて乗務に向かうキャビンアテンダントたち。その後に続いて談笑しながら搭乗ゲートに入って行くパイロットたち。

 空港の国際線出発ゲートエリアに集った人びとがそれぞれの目的地に向かって飛び立って行く。

 大きなガラス窓の向こうの晴れ渡った大空の下で色とりどりの飛行機が数えきれないくらいに並んでいる。遠目には次々に離陸していく飛行機や着陸してくる飛行機が小さく見える。

 これから搭乗する想像以上に大きい飛行機を見て、安寿は深いため息をついた。

 「航志朗さん、私、ちょっと行って来ます」

 そう言って安寿が長椅子から立ち上がると、航志朗が安寿の腕をつかんで言った。

 「安寿、空港に来てからトイレに行くの何回目だ? 大丈夫だよ、飛行機の中にもトイレはあるから」

 「だって、空の上でトイレに行くなんて」

 「大丈夫だ、安寿。なんなら俺が君と一緒にトイレに入るから」

 「それは、ちょっと……」

 「大丈夫。ずっと俺が一緒にいるだろ」

 航志朗は安寿を長椅子に座らせて肩に腕を回した。安寿が胸をどきどきさせているのが伝わってくる。残念ながら自分に対してではない。生まれて初めて飛行機に乗るからだ。

 搭乗アナウンスが始まった。搭乗ゲート前で長椅子に座って待っていた人びとがいっせいに立ち上がって列をつくりはじめた。あわてて安寿も立ち上がった。安寿の足は小刻みに震えている。航志朗はまた安寿を長椅子に座らせた。

 「そんなに急いで並ばなくても大丈夫だよ、安寿。俺たちはエコノミークラスなんだから、一番最後の搭乗だ」
 
 いつものビジネスクラスでももちろんファーストクラスでもよかったが、航志朗は安寿の初めてのフライトにエコノミークラスを選んだ。理由は単純だ。エコノミークラスの座席の間隔が狭いからだ。身体はじゅうぶんに伸ばせないが、そのぶん安寿と密着できる。この航空会社の飛行機には空の上のベッドを完備したファーストクラスもあるが、いろいろ我慢を強いられて非常にタフなフライトになるだろうと予測して却下した。

 安寿は胸の前で両手を重ねて握りしめた。

 (私、とうとう航志朗さんと一緒に飛行機に乗って、空の彼方へ行くんだ……)
 
 空港に着いてから航空会社のチェックインカウンターでボーディングパスを受け取った。それには「ANJU KISHI」と安寿の名前が記載されている。四年間も違和感を持ち続けたこの名前がようやく安寿のものになった。

 今まで航志朗を見送っていた出発ロビーから一緒に中に入ってセキュリティチェックを通った。それから、出国審査を受けた。まっさらな安寿のパスポートに入国審査官がスタンプを押した。先に出国審査を受けて安寿を見守っていた航志朗が言った。「もうこれで俺たちは日本から出たことになるんだよ、安寿」と。驚くほどあっけなかった。そして、安寿と航志朗は手をつないで搭乗ゲートに向かい、今、ここにいる。

 「さあ、安寿。行こうか」

 航志朗が立ち上がって安寿に手を差し出した。安寿はうなずいてその手を握った。

 その時、安寿のスマートフォンが鳴った。黒革のショルダーバッグの中から取り出して画面を見ると、大学のゼミの担当教授の小柴からだった。清華美術大学の四年次の前期は今日から始まった。だが、安寿は航志朗の仕事先に一緒に行く道を選んだ。通話に出ると珍しく早口で話す小柴の声が聞こえた。

 『安寿さん、つながってよかった!』

 「小柴教授。申しわけありませんが、今、飛行機に乗るところなんです」

 『そうか、そうか。では、簡潔に言うよ。安寿さん、君は大学を卒業できる。だから、中退も休学も必要ない。いいね?』

 「小柴教授……。どうして、私が卒業できるのですか?」

 先月、安寿は一人で小柴の自宅に行って四年次のことを相談した。夫の仕事先に一緒に行くことを決めたので大学に通えなくなったと。その時、安寿は大学を中退する覚悟を固めていた。だが、小柴は安寿に「とりあえず中退の手続きはしないで、大学に在籍したままにしましょう」と提案した。

 紅茶を運んで来た小柴の妻が目尻に可愛らしい笑いじわをつくって安寿を激励した。

 「そうそう。時代は変わったのよ、お嬢さん。うさぎを二羽追いかけたら、両方つかまえなさい!」

 スマートフォンの向こう側から小柴が興奮ぎみに言った。

 『先日、黒川教授のお宅にうかがったんだ。いいや、あそこはお宅じゃない、とんでもないくらいに広いお屋敷だった。突然、黒川教授から僕に電話があってね。我が家まで彼が車を出してくれた。黒川教授は君が描いたという襖絵と天井画を見せてくれたよ。凄まじく素晴らしかった! 久しぶりに僕の眠っていた創作意欲がかき立てられたよ。安寿さん、あの作品が君の卒業制作だ!』
 
 「えっ?」

 『とにかく、あなたは安心してハズバンドと海外に行って来なさい。卒業に関しては、私と黒川教授に任せて。私たちがなんとかするから。でも、日本に帰国している時は、私のゼミに顔を出してくださいね、安寿さん』

 「はい。わかりました、小柴教授。本当にありがとうございます」

 『世界は広く、あなたは自由だ。行こうと思えばどこへでも行けますよ。さあ、あなたの翼を広げて行ってらっしゃい、安寿さん!』

 「はい、小柴教授。私、行ってきます」

 スマートフォンをショルダーバッグにしまうと、涙ぐんだ安寿が航志朗を見上げて言った。

 「航志朗さん。私、このまま大学を卒業できそう」

 「そうか。よかったな、安寿。でも、どうしてなんだ? 海外にいる間は大学に通えないのに」

 「小柴教授と皓貴さんが、なんとかしてくれるそうです」

 「なるほど。史上最強のコンビが、君をバックアップしてくれるんだな」

< 467 / 471 >

この作品をシェア

pagetop