今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と航志朗の前に鰻重が来た。さっそく航志朗はふたを勢いよく開けた。
「おおっ、おいしそうだな。俺、鰻食べるの久しぶりなんだ」
上機嫌の航志朗は安寿に向かって「けがの回復のための滋養になるだろ」と取ってつけたように言った。
(本当に、このひとは、もう……)と安寿はあきれかえった。
先程、鰻屋の大きなのれんをくぐったら順番待ちをしている人びとが大勢いた。案内係には一時間以上待つことになると言われた。日曜日の昼時だから仕方がない。
航志朗は当然のように「個室は空いていますか?」と尋ねた。案内係に「大人数の御一行さま用の大広間はありますが、申しわけありませんが、お二人さま用の個室はございません。それに部屋代として別料金をいただくことになりますが」と言われたが、航志朗は平然と「ではそれで構いませんので、その広間を使わせてください」と言いのけた。
通された店の奥にある大広間は、数十人でもじゅうぶん使用できるような広い畳の部屋だった。走れないが、走り回れそうだった。
(こんなに広いお部屋の料金って、ずいぶんとかかるんじゃないの。鰻重だって高いのに!)
安寿の視線に気づいた航志朗は、「ふたりっきりで、ゆっくり食事ができるだろ?」と余裕の笑顔で言った。
それでも久しぶりに食べた鰻はおいしかった。安寿は家族でこの店の出前の鰻重を食べたことを思い出した。
(そうだ。おじいちゃん、ここの鰻大好きだったな)
そして、目の前でおいしそうに鰻を食べている航志朗の顔を見て思った。
(昨日からこのひとと何回も一緒にご飯を食べている。まるで家族みたいに)
そこへ航志朗のスマートフォンが鳴った。航志朗はそれをジャケットの内ポケットから取り出して一瞥し、「ちょっと、失礼」と言ってから電話に出た。
安寿はまた驚いてしまった。突然、航志朗が流暢に英語を話し始めたのだ。安寿にとって目の前の航志朗がまた別世界に住む遠いひとになった。
『コーシ、明日の朝には帰って来るんだろ?』
シンガポールにいるアン・リーからだった。
「アン、連絡しようと思っていたんだが、しばらく戻れなくなった」
『ええっ? なんだよ困るよ! 明日の午後に大事な商談があるだろ? 三千五百万ドルの案件だぞ!』
「わかってるよ、アン。でも、すまないが戻れないんだ。実は、昨日、女の子にけがさせてしまって」
『なんだと? 女の子にけがさせた? コーシ、おまえ、何やってるんだよ! その女の子は大丈夫なのか?』
「ああ。でも、治るまでには時間がかかりそうだ。それから、アン……」
『それから、なんだよ?』
「アン、俺、その女の子と、……昨夜、結婚した」
『はあああ!?』
安寿は他人の会話を盗み聞きするのはよくないとは思ったが、どうしても耳に入って来てしまう。ただ英語なので、その内容は安寿にはさっぱりわからない。それにしても、電話の相手は怒っているようで、航志朗はしきりにその相手をなだめながら、「アン」と甘い声で呼んでいた。
(もしかして、シンガポールにいる岸さんの彼女かな? きっと日曜日なのに会えなくて怒っているんだ)と安寿は思った。
その時、安寿は胸の奥が引っかかれたような嫌な感じがした。
航志朗は深いため息をつきながら、スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまった。航志朗を見つめていた安寿はあわてて視線を下に落とした。
緑茶を飲んでから航志朗が軽い口調で言い出した。
「安寿、明日から学校だろ? 当分の間、俺が車で送り迎えするから安心しろよ」
思わず安寿は叫んだ。
「ええっ! どうしてですか?」
「ん? どうしてって、君の夫だからに決まっているじゃないか。俺は学生の君の保護者でもある」
(そんなこと、急に言われても……)
安寿は戸惑った。必死に言い返す言葉を考えた。
「あの、あと二日でゴールデンウィークに入るので、明日は念のため学校お休みして、あさっては登校しようと思います。明日一日休めば大丈夫なので、送り迎えはご遠慮させていただきます」
「いや、だめだ。じゃあ、あさっての朝に君の家に迎えに行って高校まで送る。それから下校時間に高校に迎えに行く。いいな、安寿」
困った安寿は送り迎えをなんとか回避しようとして航志朗に尋ねた。
「ええと、……あの、岸さんはいつシンガポールに戻られるのですか?」
「もちろん、君のけがが治るまで戻らない」
「ええっ! あの、お仕事は大丈夫なんですか?」
「なんとかする。君は心配するな」
(そんなこと言われても……)
安寿はさらに当惑した。
航志朗は大事なことを思い出して、安寿に尋ねた。
「そうだ。これから、君はどこに住む? 俺のマンションに住むか?」
本心では「俺と一緒に住むか?」と航志朗は言いたかった。
それについては、安寿はもう心に決めていた。
「できれば、岸家のお屋敷に住まわせていただきたいです。高校が今住んでいる家よりもずいぶん近くなるので」
(そう。高校を卒業するまでだし……)と安寿はひそかに思った。
「そうか、わかった。伊藤さんに相談しておくよ」
(そうだよな。俺のマンションに住んだら、実質一人暮らしになるからな。恵さんが心配するだろう。でも、あの家に住むなんて大丈夫なのか)
航志朗の胸の内に重苦しい懸念が生じてきた。嫌な予感がして、航志朗は胸がざわめいた。今のままでは安寿と結婚したとはいっても、結局、離れ離れになってしまう。日本とシンガポールの間で距離をへだてれば、安寿をこの手で守ることができない。
(どうすれば、彼女と一緒にいられるのだろう)
航志朗は胸の激しい痛みを感じながら思った。
(いや、その前に、どうすれば、彼女は俺を好きになってくれるのだろう……)
「おおっ、おいしそうだな。俺、鰻食べるの久しぶりなんだ」
上機嫌の航志朗は安寿に向かって「けがの回復のための滋養になるだろ」と取ってつけたように言った。
(本当に、このひとは、もう……)と安寿はあきれかえった。
先程、鰻屋の大きなのれんをくぐったら順番待ちをしている人びとが大勢いた。案内係には一時間以上待つことになると言われた。日曜日の昼時だから仕方がない。
航志朗は当然のように「個室は空いていますか?」と尋ねた。案内係に「大人数の御一行さま用の大広間はありますが、申しわけありませんが、お二人さま用の個室はございません。それに部屋代として別料金をいただくことになりますが」と言われたが、航志朗は平然と「ではそれで構いませんので、その広間を使わせてください」と言いのけた。
通された店の奥にある大広間は、数十人でもじゅうぶん使用できるような広い畳の部屋だった。走れないが、走り回れそうだった。
(こんなに広いお部屋の料金って、ずいぶんとかかるんじゃないの。鰻重だって高いのに!)
安寿の視線に気づいた航志朗は、「ふたりっきりで、ゆっくり食事ができるだろ?」と余裕の笑顔で言った。
それでも久しぶりに食べた鰻はおいしかった。安寿は家族でこの店の出前の鰻重を食べたことを思い出した。
(そうだ。おじいちゃん、ここの鰻大好きだったな)
そして、目の前でおいしそうに鰻を食べている航志朗の顔を見て思った。
(昨日からこのひとと何回も一緒にご飯を食べている。まるで家族みたいに)
そこへ航志朗のスマートフォンが鳴った。航志朗はそれをジャケットの内ポケットから取り出して一瞥し、「ちょっと、失礼」と言ってから電話に出た。
安寿はまた驚いてしまった。突然、航志朗が流暢に英語を話し始めたのだ。安寿にとって目の前の航志朗がまた別世界に住む遠いひとになった。
『コーシ、明日の朝には帰って来るんだろ?』
シンガポールにいるアン・リーからだった。
「アン、連絡しようと思っていたんだが、しばらく戻れなくなった」
『ええっ? なんだよ困るよ! 明日の午後に大事な商談があるだろ? 三千五百万ドルの案件だぞ!』
「わかってるよ、アン。でも、すまないが戻れないんだ。実は、昨日、女の子にけがさせてしまって」
『なんだと? 女の子にけがさせた? コーシ、おまえ、何やってるんだよ! その女の子は大丈夫なのか?』
「ああ。でも、治るまでには時間がかかりそうだ。それから、アン……」
『それから、なんだよ?』
「アン、俺、その女の子と、……昨夜、結婚した」
『はあああ!?』
安寿は他人の会話を盗み聞きするのはよくないとは思ったが、どうしても耳に入って来てしまう。ただ英語なので、その内容は安寿にはさっぱりわからない。それにしても、電話の相手は怒っているようで、航志朗はしきりにその相手をなだめながら、「アン」と甘い声で呼んでいた。
(もしかして、シンガポールにいる岸さんの彼女かな? きっと日曜日なのに会えなくて怒っているんだ)と安寿は思った。
その時、安寿は胸の奥が引っかかれたような嫌な感じがした。
航志朗は深いため息をつきながら、スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまった。航志朗を見つめていた安寿はあわてて視線を下に落とした。
緑茶を飲んでから航志朗が軽い口調で言い出した。
「安寿、明日から学校だろ? 当分の間、俺が車で送り迎えするから安心しろよ」
思わず安寿は叫んだ。
「ええっ! どうしてですか?」
「ん? どうしてって、君の夫だからに決まっているじゃないか。俺は学生の君の保護者でもある」
(そんなこと、急に言われても……)
安寿は戸惑った。必死に言い返す言葉を考えた。
「あの、あと二日でゴールデンウィークに入るので、明日は念のため学校お休みして、あさっては登校しようと思います。明日一日休めば大丈夫なので、送り迎えはご遠慮させていただきます」
「いや、だめだ。じゃあ、あさっての朝に君の家に迎えに行って高校まで送る。それから下校時間に高校に迎えに行く。いいな、安寿」
困った安寿は送り迎えをなんとか回避しようとして航志朗に尋ねた。
「ええと、……あの、岸さんはいつシンガポールに戻られるのですか?」
「もちろん、君のけがが治るまで戻らない」
「ええっ! あの、お仕事は大丈夫なんですか?」
「なんとかする。君は心配するな」
(そんなこと言われても……)
安寿はさらに当惑した。
航志朗は大事なことを思い出して、安寿に尋ねた。
「そうだ。これから、君はどこに住む? 俺のマンションに住むか?」
本心では「俺と一緒に住むか?」と航志朗は言いたかった。
それについては、安寿はもう心に決めていた。
「できれば、岸家のお屋敷に住まわせていただきたいです。高校が今住んでいる家よりもずいぶん近くなるので」
(そう。高校を卒業するまでだし……)と安寿はひそかに思った。
「そうか、わかった。伊藤さんに相談しておくよ」
(そうだよな。俺のマンションに住んだら、実質一人暮らしになるからな。恵さんが心配するだろう。でも、あの家に住むなんて大丈夫なのか)
航志朗の胸の内に重苦しい懸念が生じてきた。嫌な予感がして、航志朗は胸がざわめいた。今のままでは安寿と結婚したとはいっても、結局、離れ離れになってしまう。日本とシンガポールの間で距離をへだてれば、安寿をこの手で守ることができない。
(どうすれば、彼女と一緒にいられるのだろう)
航志朗は胸の激しい痛みを感じながら思った。
(いや、その前に、どうすれば、彼女は俺を好きになってくれるのだろう……)