今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は午後三時すぎに安寿の住む団地に戻って来た。遠慮する安寿を押しきって、航志朗は安寿を玄関まで送ろうとした。

 ちょうど恵も帰宅したところで、「ホテルでケーキを買ってきたので、航志朗さんもご一緒に召しあがりませんか?」と恵から誘われて、結局、航志朗はまた安寿の家にあがった。それも嬉しそうにいそいそと。

 恵は昨日とは打って変わって幸せそうに笑っている。安寿はその姿に心から安堵した。それにしても、安寿は慎重な性格の恵が航志朗をすっかり信頼しきっていることに驚いた。それに、恵はいつのまにか航志朗のことを親しげに「航志朗さん」と呼んでいる。

 (恵ちゃんがあのひとのことをそう呼ぶのなら、私も名前で呼ばなくちゃ変じゃないの)

 安寿は困惑ぎみになった。

 (名前で呼んだら、あのひととの距離が縮まってしまいそうで、ものすごく怖いのに)

 濃厚な味のホテルメイドのチョコレートケーキを食べ終わってから、航志朗は昨夜安寿の部屋で見た絵を思い出した。

 「そうだ、安寿。君がおととしの夏に描いていた絵を俺に見せてくれないか?」

 まだモンブランを食べていた安寿は驚き、フォークを刺しそこなってマロンをぽろっと落とした。あわてて転がり落ちたマロンをフォークで刺してから安寿はおずおずと言った。
 
 「あの、本当につまらない絵ですけれど……」

 安寿と航志朗は立ち上がって安寿の部屋に行った。恵はそんなふたりの後ろ姿を微笑ましく見送ってから、ショートケーキにのった大粒のイチゴをおいしそうにほおばった。

 安寿の岸家の裏の森の絵の前に座り、航志朗は安寿の絵をしっかりとその琥珀色の瞳に映し入れた。

 しばらく航志朗はその絵を呆然と見つめていた。突然、思いもよらない驚嘆の一撃がやって来て、航志朗は思わず息を吞んだ。

 航志朗はあの森の池のほとりに立ち、池の水面に映る何かをのぞき込んでいるような奇妙な感覚を覚えた。

 (なんて凄まじい絵なんだ。なんなんだ、この感覚は……。この絵に吞み込まれそうだ)

 航志朗の隣に座った安寿は真っ赤になってうつむいていた。

 (どうしよう……。ものすごく恥ずかしい。学校ではこんな気持ちにならなかったのに)

 航志朗はやっと口を開いて、興奮ぎみに言った。

 「安寿、この絵、売れるぞ。それも信じられないような価格で」

 「……はい?」

 航志朗の意外な言葉を安寿はまったく理解できなかった。

 窓の外が薄暗くなってきた。恵は夕食を食べて行かないかと誘ったが、航志朗は遠慮して断った。航志朗は「じゃあ、安寿。あさっての朝七時半に玄関まで迎えに行くからな」と言って、「それから、絶対安静にしろよ」と強く念を押して帰った。

 安寿はやっと航志朗から解放されてひと安心したが、それと同時に、胸の奥がうずくような感じがした。恵は「航志朗さんって、本当に素敵な方ね」と言って、意味ありげににっこりと安寿に微笑んだ。

 その夜、航志朗に贈られたアレンジメントをデスクの上に飾って水やりをしてから、安寿は早い時間にベッドにもぐりこんだ。だが、安寿はなかなか寝つけずに、じっとそのアレンジメントを見つめていた。

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