今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 連れて行かれた三石宝飾店は見るからに格式高い老舗宝飾店で、いかにも高級店と言えるような風格が漂っていた。そのあまりの敷居の高さに安寿はひるんだ。そして、自分が高校の制服姿で、包帯を巻いた足を穿き古したスニーカーからはみ出しているという自らの外見を思い出した。

 さらに安寿の両手の指先には、今日の絵画実習の後に石鹸で洗っても落としきれなかった油絵具が付着している。あわてて航志朗の腕を引っぱって、安寿は必死に訴えた。

 「岸さん! あの、私、こんな格好で大丈夫なんですか? 指も汚れているし」

 「ん? 予約してあるから大丈夫だよ」

 「そういうことじゃなくて」

 「そうだ、安寿。ここでは俺を名前で呼べよ。いいな?」

 「……はい」

 安寿と航志朗は、店のエントランスに控えたアクション映画の俳優のような恰幅のよいドアマンに、重厚な木製の扉を開けてもらって中に入った。

 店内は思わず目を細めてしまうほど明るく光り輝いていた。奥から慇懃な年老いた男がやって来て、ふたりを出迎えた。その男は自らを社長だと名乗り、深々とお辞儀をしてうやうやしく言った。

 「岸さま、岸夫人、いらっしゃいませ。ようこそ、おいでくださいました」

 (えっ、「岸夫人」って、私のこと?)

 安寿はどぎまぎしてうろたえた。

 グレイヘアの社長の後をふたりはついて行った。たくさんの高級そうなジュエリーがピカピカに磨かれたガラスケースの中に陳列されている。まぶしくて安寿は目がちかちかしてしまった。安寿は航志朗の背中越しにこっそりとガラスケースの中をのぞいてみたが、並んだジュエリーにはどれも値札がついていなかった。

 一階の店舗を通り、クラシカルなエレベーターに乗って八階まで上がった。ふたりはふかふかの絨毯張りのフロアの奥にある重厚な扉の向こうの部屋に通された。

 安寿は緊張して航志朗の腕に強くしがみついた。航志朗はそんな安寿に優しく微笑みかけた。そして、安寿の耳元に口を寄せて「大丈夫だ、安寿」と小声でささやいた。航志朗の生温かい息が耳にかかり、安寿は思わず胸がどきっとしてしまった。
 
 そこは銀座の街並みを見渡せる広々とした空間だった。外は薄暗くなってきていて、街の灯がともり始めていた。座り心地が良すぎてかえって落ち着かないソファにふたりは並んで座った。その部屋に控えていた若い男の店員がドリンクのオーダーを取った。航志朗はコーヒーを、安寿は少し迷ってから紅茶を頼んだ。

 安寿が窓の外を眺めていると、ドリンクにクッキーとトリュフチョコレートが添えられて運ばれてきた。さっそく航志朗はちらっと安寿と目を合わせてから遠慮なくチョコレートをつまんで口に入れた。そのおどけた姿に安寿は可笑しくなって少し緊張がほどけた。

 毎日美容院に通っているのではないかと思わせる髪型の店員が様々なデザインの結婚指輪がのったトレイを持って来て、ふたりの前に丁重に置いた。どれもとても美しく、安寿は初めて見る結婚指輪に魅せられて見入ってしまった。航志朗はそんな安寿の姿を愛おしそうにしばらく見つめてから言った。

 「安寿、どれがいい?」

 安寿は我に返って、頬を赤らめてうつむいた。そして、そのまま消え入りそうな小さい声で言った。

 「こ、航志朗さんは、どれがよいと思われますか?」

 そのあまりの可愛らしさに、控えていた社長と店員が顔を赤らめた。

 「そうだな、これはどうかな?」と言って、航志朗は社長を見た。社長は「岸さま、どうぞご遠慮なくお試しくださいませ」と丁重に航志朗に言った。

 航志朗は一番シンプルなデザインの指輪を選んでから安寿の左手をそっと手に取り、その薬指にゆっくりとはめていった。安寿の左手は微かに震えていたが、航志朗の行為になすがままに従った。

 安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見てから、結婚指輪をつけた自分の左手を見て小さくため息をついた。航志朗は頬を赤らめながら、そんな安寿をまた愛おしそうに見つめた。安寿は安心感に包まれて、温かく満ち足りた気持ちになっている自分にとても驚いた。

 その様子を見守っていた社長が安寿に言った。

 「お嬢さまも、岸さまにどうぞ」

 (お嬢さま? 奥さまだろ)と航志朗は思いつつも、安寿の前に自らの左手を差し出した。航志朗は安寿の目を見てうなずいた。安寿は航志朗の左手を自分の左手にのせて、航志朗の薬指にペアの結婚指輪をはめていった。だが、手が震えてなかなかはめることができない。

 航志朗は右手で安寿の左手を下から支えた。指輪をつけ終わってもそのまま航志朗は安寿の手を両手で包み、安寿に微笑みかけた。安寿も恥ずかしそうに航志朗に微笑んだ。

 社長と店員は結婚を決意したカップルのこの瞬間にいくどとなく立ち会ってきたが、このふたりのこのうえない清らかな光景に感動が押し寄せてきて、ふたりは思わず大きな拍手をしてしまった。

 その拍手の音に我に返った安寿は、また真っ赤になってうつむいた。航志朗は安寿をこのまま抱きしめたいと思ったが、かろうじて我慢した。航志朗の乾いた唇が微かに動いた。

 「安寿……」

 名前を呼ばれた安寿は顔を上げて航志朗を見つめながら言った。

 「私はこちらがよいと思います」

 「そうだな。これにしよう」

 即答で航志朗が同意した。社長は深々と一礼をしてから、さっそく二人の左手の薬指のサイズを測った。それから、「刻印はどうなされますか?」と尋ねた。航志朗は安寿に言った。

 「ふたりのイニシャルを彫ってもらおうか?」

 安寿はすぐに後ろめたい気持ちになったが、仕方なくその言葉にうなずいた。

 その瞬間、安寿は大変なことに気がついた。

 (どうしよう! 私ったら値段を聞かないで、これがいいって言っちゃった)

 結婚指輪は二週間ほどで納品できますと社長が言った。航志朗はカードで支払ったが、結局、その価格は安寿にはわからずじまいだった。

 「よろしかったら、夜景を見ながら、ごゆっくりお茶の時間を楽しまれてください」と微笑を浮かべて社長が言った。店員がコーヒーと紅茶を新しいものに取り替えてから、丁寧にお辞儀をして、二人は部屋から出て行った。

 ふと航志朗が安寿に言った。

 「ここは、俺の祖父母と両親が結婚指輪を注文した店なんだ」

 「そうですか……」

 安寿は罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。

 安寿はコーヒーをおいしそうに飲んでいる航志朗に申しわけなさそうに言った。

 「岸さん、あの、……いいんですか?」

 本当は「いずれ離婚するのに、結婚指輪を用意してしまっていいんですか?」と安寿は航志朗にきちんと訊きたかった。

 航志朗は安寿の質問の意味がわからなかったが、にっこり笑ってうなずいた。そして、(とにかく、これで俺の心配が少しは減るな)とひそかに思った。

 ふたりは一階に下りた。エレベーターの中で、航志朗はニースでロマンに言われたことを思い出した。一階の店舗でいきなり航志朗は、「安寿、他にほしいものはないのか? なんでも俺が買ってやる。そうだ、ついでに婚約指輪も注文するか!」と光り輝くショーケースを背後に仁王立ちになって言った。それに気づいた先程の店員があわてて寄って来た。まただと思って、安寿は心底うんざりした。安寿は「ありません」とつれなく言った。そして、本当に思ったことを航志朗に言った。

 「岸さんって、華鶴さんに似ていますね」

 「は? どういうことだ?」

 一瞬、航志朗はものすごく腹が立った。

 「だって、なんでも私に買い与えようとするんだもの」

 航志朗は何も言い返せなかった。

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