今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗のマンションには三十分ほどで到着した。道は少し混んでいた。航志朗は安寿をそっと起こして家に連れて帰った。まだ眠たそうな安寿をリビングルームのソファに座らせてから、航志朗はバスルームに行って入浴の準備をした。

 安寿は間接照明が灯り、ほどよく薄暗いグレイッシュトーンの広い室内を見回した。天井を見上げると、なぜだか森の中にいるような気がした。ダイニングテーブルの上にはノートパソコンが開けたままで置いてあり、その横には無造作に書類が散らばっていた。それから、ガラス扉がついた木製の大きなブックケースが目に入った。

 (どんな本が並んでいるのかな……)と安寿はぼんやりと思った。

 航志朗がリビングルームに入って来て安寿に言った。

 「安寿、風呂に入ってきたら? 疲れただろう、早く寝たほうがいい。俺のベッドを使っていいから」

 「岸さんは、どこで寝るんですか?」

 「俺はこのソファで寝る」

 安寿は買ってもらったばかりのパジャマとインナーとマウンテンリュックサックから取り出した小さなポーチを胸に抱えてバスルームに行った。洗面脱衣室で安寿は包帯を外してテーピングを巻いただけの素足になった。そして、躊躇なく制服を脱いで、ホテルのように掃除が行き届いた美しいバスルームに入った。安寿は広いバスタブにゆっくり浸かってまたうとうとしてしまった。

 ノートパソコンを立ち上げて、航志朗はたまっていたメールを片づけた。そして、ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出してボトルに口をつけずに飲んでいると、スマートフォンが鳴った。

 『航志朗坊っちゃん、今、お時間よろしいでしょうか?』

 それは伊藤からだった。

 『安寿さまのお住まいの件ですが、やはりお屋敷のほうに住まわれるのが一番よろしいかと』

 「そうですね。彼女もそうしたいと言っています」

 航志朗は伊藤に連絡するのをすっかり忘れていたことに気づいた。

 『先程、安寿さまの携帯にお電話したのですが、お出になられなくて』

 「ああ、彼女は、今、風呂に入っていますから」

 『は?』

 伊藤は驚いた様子でしばらく沈黙した。

 『航志朗坊っちゃん、シンガポールにお戻りになられたのではなかったのですか?』

 「今、東京のマンションにいます。安寿と一緒に」

 黙り込んだ伊藤が、今、何を想像しているのかが手に取るようにわかって、航志朗は可笑しくなった。危うく声に出して笑ってしまうのを航志朗はなんとかこらえた。

 『こ、航志朗坊っちゃん、もう安寿さまと……』

 伊藤はあきらかに狼狽していた。

 「それから、三石宝飾店で彼女と結婚指輪を注文してきました」

 『……し、承知いたしました。では、明日か明後日、安寿さまとお屋敷にいらっしゃっていただけませんでしょうか? 今後の打ち合わせといたしたいと存じます』

 「わかりました。明後日に安寿とそちらに参ります」

 ミネラルウォーターをまたひと口飲んで、航志朗はソファに深く座ってうつむいて笑った。

 (奇しくも既成事実をつくったっていうことになるのか)

 航志朗はふとスマートフォンの時計を見た。午後十一時半を過ぎている。

 (あれ? 安寿、まだ風呂から出て来ないのか。一時間以上も入っている?)

 急に航志朗は心配になった。

 (風呂で倒れているんじゃないのか!)

 あわてふためいて航志朗はバスルームに向かった。洗面脱衣室には安寿の制服がきちんとたたまれて置いてあった。中をうかがったがまったく物音がしない。すぐに航志朗はドアを叩いて大声で怒鳴った。

 「安寿、大丈夫か!」

 はっと安寿はバスタブの中で飛び起きて言った。

 「大丈夫です!」

 安寿は反射的に答えた拍子に湯を飲んでしまってむせて咳込んだ。また外から航志朗の声がした。

 「安寿、本当に大丈夫なのか?」

 安寿は大きな声で答えた。

 「岸さん、ごめんなさい! お風呂の中で眠ってしまいました」

 ほっと胸をなでおろして航志朗はリビングルームに戻った。航志朗はダイニングテーブルの前に座ってノートパソコンに向かいながら頬杖をついて肩を震わせた。

 (大物だな。初めて来た男の家の風呂で熟睡するなんて)

 (いやだ! 私ったらお風呂で眠っちゃったんだ)

 すっかり目が覚めた安寿はすぐに髪と身体を洗ってバスルームから出た。パジャマに着替えてから置いてあったドライヤーで髪を乾かして、ポーチの中から歯ブラシを取り出して歯をみがいた。いつも持ち歩いているポーチには、くしやリップクリーム、日焼け止めクリームに保湿スプレー、歯みがきセット、それに最低限の生理用品まで入っている。急な外泊でもじゅうぶん事足りた。

 恐る恐る安寿は脱いだ制服やインナーをぎゅっと抱きかかえてリビングルームに戻って来た。薄暗い部屋では航志朗がブルーライトを浴びてノートパソコンを早打ちで叩いていた。航志朗は安寿に気づいて立ち上がって言った。

 「安寿、パジャマ一枚じゃ肌寒いだろ」

 航志朗はデパートの手提げ袋の中からロングカーディガンを取り出して安寿の肩に掛けた。安寿は航志朗の紳士的な行為にすっかり恐縮してしまった。

 「岸さん、ありがとうございます。あの、先程は本当にすいませんでした」

 安寿は目を伏せて顔を少し赤らめた。優しいまなざしで目を細めながら航志朗が言った。

 「謝らなくていいよ。ここは君の家になったんだから、自由にすればいい」

 さらに安寿は恐縮した。

 (私の家なんて、とてもじゃないけれど思えない……)

 航志朗は「長風呂していたんだ、水飲むか?」と言って、冷たいミネラルウォーターをマグカップに注いで安寿に渡そうとしたが、思い直してレンジアップして温めてから手渡した。それから、「二階のベッドのシーツはクリーニング済みのものに取り替えてある。毛布も新品だ」と言って、航志朗はリビングルームから出て行った。すれ違いざまに「おやすみ、安寿」と安寿の耳のそばでそっとささやいて。

 後に残された安寿は温かいマグカップを手に持って一人たたずんだ。ソファに座って白湯を飲んでから、安寿はゆっくりと階段を上って航志朗のベッドルームに行った。

 ベッドルームはメゾネットの二階にあった。大きなベッドだけが置かれていて部屋は広々としている。安寿は窓の外の空を見上げた。今夜は新月なのだろうか、そこには暗闇が広がっていた。ベッドの上にたたんで置いてあった毛布を手に取ると、新品だと言っていたのに陽の香りがした。もしかして高校に迎えに来る前に陽に当てておいてくれたのかもしれないと安寿は思った。思わず安寿は泣きそうになって胸に毛布を抱きしめた。

 バスルームに入った航志朗はしばらくバスタブの中の湯を見つめていた。いつものようにシャワーだけで済まそうと思っていたが、考えるまでもなく追い炊きのスイッチを押した。航志朗は髪と身体をシャワーで洗い流してから、いそいそとバスタブに浸かった。それは、もちろん安寿が長時間浸かっていた湯だ。航志朗は湯で身体が温まったのとは別に赤くなった。

 航志朗は苦笑いしながらひとりごちた。

 「俺は、本当にどうかしているな……」

 バスルームから出た航志朗がドライヤーで髪を乾かしていると、洗面脱衣室に包帯が落ちていることに気づいた。リビングルームに戻ってから、念のため山田医師から処方された外用薬袋を確認してみると使った形跡がない。

 (安寿、テーピングのままで眠ってしまったのか)

 外用薬袋を持って航志朗はベッドルームに行った。いちおうドアを軽くノックしたが返答はない。暗い部屋に目を慣らしてから航志朗は中に入った。広いベッドのすみで毛布にくるまって安寿は眠りに落ちていた。航志朗はそっと毛布をめくって安寿の左足を確認した。やはり、安寿の左足はテーピングのままだった。

 航志朗は安寿の左足に湿布を当ててから、巧みに包帯を巻いた。一昨年、ヴァイオレットが理事をしている福祉事業財団が主催の応急手当講習会で、心肺蘇生とAEDの使い方とともに包帯の巻き方も習得した。あの時は休日だったにもかかわらず、ヴァイオレットに無理やり人数合わせで呼ばれて迷惑きわまりなかったことを思い出した。航志朗は英語でシンガポールにいるヴァイオレットに向かって感謝した。

 (ヴィー、ありがとう。今、役に立ったよ)

 冷たい湿布を当てられたというのに、安寿は身動きひとつせずぐっすりと眠っている。

 (本当に大物だな。初めて来た男の家のベッドで熟睡している)

 航志朗は安寿の隣に横になった。すると背中を向けていた安寿が寝返りを打って、航志朗の方を向いた。航志朗は手を伸ばして安寿の黒髪をなでた。しばらく航志朗は眠っている安寿を見つめていた。そして、胸を詰まらせながら航志朗はつぶやいた。

 「安寿、俺は君を愛している。……心から愛している」

 そして、安寿の頬にキスしてから、航志朗は静かにベッドルームを出て行った。
 



 
 



 


 
 

 
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