今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 キッチンで航志朗は電気ケトルの湯が沸くのを待っていた。ダイニングテーブルの上には航志朗が先程ベーカリーで買ってきた焼きたてのパンが入った紙袋が置いてある。

 安寿は洗面脱衣室に行って、昨日航志朗に買ってもらったオーガニックコットンのルームウェアに着替えてから、顔を洗って髪をとかした。そして、洗濯乾燥機に昨晩使ったタオルと自分の洗濯物を入れてスタートボタンを押した。かなり迷ったが、脱いだまま置かれていた航志朗の服とインナーも後から一緒に入れた。

 ルームウェアは生成りのロングワンピースで、リボンがついた胸元からギャザーが寄っている。長い丈を持て余しつつ転ばないように裾を持ち上げて、安寿はキッチンに行った。

 目の前にいる航志朗に安寿は声をかけた。

 「航志朗さん、何かお手伝いしましょうか?」

 航志朗は下を向いてスマートフォンを繰っていたが、突然、着替えた安寿が目の前に現れて、そのうえ、あろうことか名前でいきなり呼ばれて面食らった。身体のバランスを崩した航志朗は、思いきり腰をシステムキッチンにぶつけてしまった。

 「いてて……」

 「大丈夫ですか! ごめんなさい。突然、声をかけてしまって」

 申しわけなさそうに安寿が言った。

 航志朗は腰をさすりながら苦笑いして言った。

 「それって、四日前の俺のセリフなんだけど」

 それを聞いた安寿は目を大きく見開いてから笑みをこぼした。

 航志朗は安寿を見つめた。南向きの窓から差し込んで来る光芒を背に、安寿は柔らかい物腰でそこに立っている。

 (……本当に、彼女はきれいだな)

 航志朗は惚れ惚れと思った。

 「安寿、温かい紅茶でも飲むか? 牛乳も買ってきたからミルクティーにもできるよ」

 「はい。ミルクティーをお願いします。ありがとうございます」

 ふたりはダイニングテーブルに向かい合わせに座って朝食をとった。全粒粉の食パンは焼きたてでまだ温かく、小麦の力強い味がしておいしかった。航志朗はシナモンロールも買ってきていた。「君、これ好きだろ?」と言って、安寿に手渡した。安寿は少し赤くなってうなずくと「半分こにしましょう」と言って、シナモンロールを二等分にして航志朗に手渡した。

 航志朗はスマートフォンの時計を見た。時刻は午前十時すぎになっていた。

 「安寿、俺は今から仕事をする。今、シンガポールは午前九時すぎで、そろそろ俺が働いている会社の始業時間なんだ」

 その航志朗の言葉に二杯目のミルクティーにハチミツを入れてスプーンでかき混ぜていた安寿はあわててうなずいた。航志朗はそのままダイニングテーブルの上にノートパソコンを開いて、スマートフォンで電話をかけた。そして、航志朗は英語で会話しながらノートパソコンを操作してワークシートの数値データを入力し始めた。
 
 安寿は目の前で航志朗が真剣に働く姿に見とれてしまった。ふと航志朗のマグカップが空になっていることに気がつくと、安寿はキッチンに行ってコーヒーを淹れて、仕事の邪魔にならないように気をつけながら、航志朗の手元に置いた。航志朗はそれを見て、英語で話しながらにこっと笑いかけてひと口飲んだ。その気さくな笑顔に思わず安寿はどきっとしてしまった。
 
 航志朗が英語で話している姿を目の当たりにして、安寿は連休中の高校の宿題を思い出した。すぐにマウンテンリュックサックを開けて、英語の教科書と英和辞典と数枚のプリント、それからペンケースを取り出してダイニングテーブルに持って来た。航志朗の前で安寿は英語の宿題に取りかかった。

 航志朗はいったんキーボードを打つ手を止めて、熱心に勉強し始めた安寿を興味深く見つめた。

 安寿が握ったシャープペンシルの先端がなめらかに綴る英作文を見て航志朗は感心した。

 (彼女、けっこう英語ができるんだな。これならシンガポールで難なく暮らせるな)

 安寿と一緒に暮らす光景を想像して、航志朗は口元に笑みを浮かべて仕事に戻った。

 英作文の宿題を安寿は一時間半ほど集中してやりとげた。次に、安寿はスケッチブックをリュックサックの中から取り出した。ソファの前に座って、安寿は何やら天井を見上げてデッサンを始めた。航志朗は頬杖をつきながら安寿の後ろ姿を見て不思議に思った。

 (安寿、いったい何を描いているんだ?)

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