今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 正午すぎになると安寿はいったん手を止めてデッサンを中断した。洗面台に行って手をよく洗ってから、洗濯物を洗濯乾燥機から取り出してリビングルームに持って行ってたたんだ。顔を赤らめながら、なんとか航志朗のパンツもたたんでソファの上に置いた。安寿は航志朗をソファ越しにちらっと盗み見たが、航志朗は仕事に集中していて、まったく気づいていないようだった。
 
 安寿はキッチンに立った。冷蔵庫を開けて見ると、開封されていないレーズンと高級そうなオリーブオイルがあった。冷凍庫にはブロッコリーとカボチャのカット野菜が入っている。システムキッチンの下の戸棚を開けてツナの缶詰を見つけた。

 安寿は冷凍ブロッコリーを軽く茹でて粗く刻み、ツナとオリーブオイルと塩で和えた。それから、冷凍かぼちゃをレンジアップしてマッシュしたものにレーズンとハチミツを混ぜて、二種類のフィリングを用意した。そして、朝食の残りの食パンに挟み、四分の一にカットしてサンドイッチをつくった。最後にマグカップに牛乳を注いでレンジで温めて、そこに濃い目のコーヒーを注いだ。

 安寿は出来上がったサンドイッチとカフェオレとコーヒーサーバーをダイニングテーブルの上に並べた。それに気づいた航志朗は、「おっ、助かる。サンキュー!」と言って、サンドイッチをつまんで食べながら、ノートパソコンのキーボードをリズミカルに叩いた。安寿もサンドイッチを口に入れながら航志朗を見て思った。
 
 (おいしいと思ってもらえるといいけど……)

 また安寿はデッサンを始めた。航志朗は仕事の手を休めて、その後ろ姿をしばらく見つめていた。ふと思いついて、航志朗は黒革の手帳に一心不乱に絵を描いている安寿の姿をこっそりシャープペンシルでスケッチした。

 航志朗はコーヒーを淹れたマグカップを持って安寿に近づいて尋ねた。

 「安寿、さっきから何を描いているんだ?」

 鉛筆を動かしながら安寿は答えた。

 「(はり)です」

 「……梁?」

 航志朗は遠慮なく安寿の絵をのぞき込んだ。そこには確かにこの部屋の梁が描かれている。

 「連休中にデッサンの課題が出ていて、『鉛筆でバリューを用いた立体的なデッサンをすること』なんです。モチーフは自由で」

 「ふうん、そうか。……で、どうして、梁なんて描こうと思ったんだ?」

 「ここに来てから、ずっとこのマンションの梁が印象的に感じるんです。私が住んでいる団地と同じコンクリートの建物なのに、この部屋はとても温かみがあって、柔らかい感じがします。よく見てみると、梁が団地の梁のように直線じゃなくて、窓に向かって曲線を描いていますよね。なんて言うか、……植物が太陽に向かって伸びて行くような曲線です。それがとても美しいと思うので」

 安寿は一生懸命に、今、自分が感じていることを自分の言葉で航志朗に説明した。

 航志朗は心から感心して言った。

 「なるほどな。つまり、君が言いたいのは、このマンションが有機的(オーガニック)なデザインの美しい建築だと思うってことだね。安寿、君はすごいな! 博士論文が書けるよ。それに、このマンションを設計した建築家が天国で泣いて喜んでいるんじゃないか、君にそう言ってもらえて」

 思いがけず航志朗に褒められて安寿は真っ赤になって下を向いたが、心のなかでは嬉しくてたまらなかった。

 (安寿は天才だな……)と航志朗は思った。そして、これはますます面白い結婚生活なってきたと航志朗は思わずにやけてしまった。

 ふと安寿は思いついて言った。

 「あの、航志朗さん。今夜の夕食どうしますか? よかったら、私、何かつくりますよ。たいしたものはつくれませんけれど、それでよかったら。この近所にスーパーマーケットはありますか? 私、お買い物してきます」

 (今夜も安寿と一緒にいられるのか……)

 航志朗は甘い気持ちでいっぱいになった。実は、いつ安寿が家に帰ると言い出すか、朝から航志朗は気が気ではなかったのだ。

 一緒にスーパーマーケットに買い物に出かけるとは夫婦らしくていいなと、その頭のなかのほとんど妄想に近い想像図に航志朗は胸が弾んだが、山田医師の言葉を思い出して、すぐに思い直した。

 「今日はどこにも出かけずに安静にしよう。夕食の食材はネットスーパーで注文すればいい。二、三時間で届けてもらえるから」

 安寿はその言葉にうなずいた。

 「航志朗さんは、何が食べたいですか?」とまっすぐに安寿に見つめられて、航志朗は胸がどきどきしてしまった。

 (あんなに名前で呼んでほしいと思っていたのに、いざ呼ばれると、俺の名前を呼ぶ彼女が可愛すぎて、どうにかなりそうだ……)

 航志朗は残りの冷めたコーヒーを一気飲みしたが、むせて咳込んでしまった。

 「航志朗さん、大丈夫ですか?」

 心配になった安寿があわてて訊いた。
 
 息も絶え絶えに航志朗がうめくように言った。

 「か、……れい」

 「はい?」

 「……カレーが、いいな」

 安堵した安寿はにっこり微笑んでから言った。

 「はい。わかりました」

 (よかった。カレーならつくれる)

 それから、安寿はソファに座って、航志朗に借りたスマートフォンの画面を見て考えこんだ。ネットスーパーでカレーの食材を選んでいるのだ。ずいぶんと時間がかかってしまっている。

 (えーと、お米って何キロ買えばいいのかな? カレールーはどれがいいの? それにしても、このネットスーパーって、ものすごく値段が高いような気がするけど……)

 航志朗がやって来て安寿の隣に座り、顔を近づけてスマートフォンの画面を一緒にのぞき込んだ。迅速に航志朗はカートにマスクメロンとさくらんぼと炭酸水を一箱追加した。

 航志朗の顔が近すぎて、安寿は胸の鼓動が早まった。合計金額を見た安寿は目を丸くした。だが、航志朗はこともなげにクレジットカードの番号を慣れた様子で入力して支払った。

 つくづく安寿は思った。

 (本当に、彼とは金銭感覚がぜんぜん違う……)

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