今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
タクシーが白亜のコロニアル様式のホテルの車寄せに滑りこんだ。この国で最も歴史のある最高級ホテルだ。格調高いエントランスには、ウエディングバンケットの開催を告げる色鮮やかな花々のアレンジメントがいくつも飾られていた。
航志朗はタクシーの精算をするために紙幣をインド系らしい高齢の運転手に手渡そうとした。だが、運転手はじっと微動だにせずに、賢者のように深遠な瞳で航志朗を凝視した。そして、運転手は航志朗に意外な言葉をかけた。
「サー、……あなたは、本日の花婿ですか?」
航志朗は、一瞬、目を大きく見開いた。
「まさか。私は花婿の友人ですよ」
運転手は航志朗の左隣を見て言った。
「私には、あなたが花婿に見えます。それから、あなたの花嫁が隣に座っている姿も見えます」
航志朗は一瞬背筋がぞくっとしたが、もちろん航志朗の隣には誰もいない。すぐに航志朗は気を取り直すと、かえって面白みを感じて冗談まじりに尋ねた。
「そうですか。では、私の花嫁はどんなひとに見えますか?」
「カワイイ花嫁。美人ではない」
運転手は大まじめに即答した。「カワイイ」だけは、日本語だった。
航志朗は笑みをこぼして、紙幣をさらに一枚追加して運転手に手渡した。
「ありがとう。占い代も払いますよ」
「サンキュー、グッドラック」
タクシーを降りると、背の高いターバン姿のドアマンが重厚なドアを開けた。磨きあげられた真っ白な大理石の床が生え、高い天井からの陽光が降り注ぐ明るい空間が目の前に広がった。
ロビーで航志朗の到着を待っていた顔見知りのアンの友人が、新郎新婦の控え室になっているスイートルームに案内すると言って、海外から帰ってきたばかりの航志朗をねぎらった。
「ミスター・キシ、お疲れじゃありませんか? 我われ中国系のウエディングバンケットは長丁場ですよ。かくいう私は、午前六時から主役たちにアテンドしています」
「ああ、例の結婚の慣習ですね? セレモニーの前に花婿が花嫁が待つ彼女の実家の部屋まで、友人たちを引き連れてお迎えに行く。花嫁の部屋には、花嫁とその友人たち、きょうだいたちが待ち構えていて、わざと花婿の邪魔をするという」
「おっしゃる通りです。アンは、あなたにも一緒に来てもらいたかったみたいですよ」
思わず航志朗は苦笑を浮かべた。
ふたりはホテルの奥に進んだ。観光客が立ち入れない二階に上がり、南国の植物が植栽された美しい中庭を見下ろしながら回廊を通り、スイートルームに着いた。
「コーシ、遅いよー!」
本日の花婿であるアンが、ぷうっと子どものように頬をふくらませながら、航志朗に抱きついた。アンはシルバーの燕尾服を着ていて、それが長身で細身の彼によく似合っている。
「コーシ、おかえりなさい!」
淡いピンクのシルク地にプラナカンスタイルの紫色のスミレの花の刺繍がほどこされた可憐なドレスを身にまとった花嫁が、アンの背後からやって来た。花嫁は頬を赤らめて航志朗にはにかんだ。
「ヴィー、ただいま」
航志朗は花嫁を優しいまなざしで見つめた。アンとこの花嫁は、航志朗にとって命の恩人である。長い間近くにいてふたりを見てきた。航志朗にはまったく不可能な、時にはあきれてしまうほどのピュアな男女関係だった。
(本当によかったな。俺は、君たちの幸せを心から願っているよ)
航志朗は心のなかで親友たちを祝福した。
そして、航志朗は花嫁を心から美しいと思った。結婚する予定も、さらにはこの先結婚するつもりもない航志朗にとって、一生縁のない花嫁の輝きがまぶしかった。
「ヴィー、きれいだ」と航志朗は目を細めて言った。航志朗の琥珀色の瞳に見つめられて、ヴァイオレット・ウォンは胸がときめいた。花嫁のヴァイオレットは頬を紅く染めて航志朗に微笑んだ。
ヴァイオレットは、航志朗に好意を寄せている自分の気持ちに気づいている。それは夫となるアンに対する愛情とは違う種類の、尊敬に似た感情だ。
ヴァイオレットは裕福な華僑の一族に生まれ育った。曾祖父母の時代は戦争と終戦後の復興で困難を極めたらしいが、ヴァイオレットはなんの不自由もなく育った。少なくとも表向きは。十四歳の時、アンと運命の出会いをした。それから十年後、ヴァイオレットはアンの妻になる。
ヴァイオレットは「うそ」が大嫌いだ。うそをつく人は、すぐわかる。どんなに隠していても、その瞳には必ずけがらわしい汚泥が浮かぶ。父がそういう人だ。子どもたちの前で父は母を愛していると言っているが、それはうそだ。なぜなら父にはずっと愛人がいるから。当然母はそれを知っている。そして、母もうそつきだ。いつも笑顔で幸せそうな妻のふりをしている。
今日は人生最良の日のはずなのに、ヴァイオレットは本当に朝からうんざりしていた。
伝統的な美しいドレスを身にまとうのは心ときめく。一生に一度の花嫁姿。そして、やっと今日から愛するアンとずっと一緒にいられる。いずれ可愛い赤ちゃんが生まれて、私はママになるだろう。でも、朝から私はうそばっかりのおべんちゃらに囲まれている。「美しい」だの「お幸せに」だの口先だけの祝福の言葉。吐き気がする。でも、わかっている。私だってうそつきだ。ゲストに笑顔をふりまく幸せな花嫁を演じている。花嫁の父と母の前で、これみよがしに。
航志朗はうそをつかない。彼の美しく透き通る琥珀色の瞳がそれを証明する。またアンもうそをつかない。アンと初めて出会った瞬間、その確信がヴァイオレットを貫いた。十四歳の時からずっと全身全霊を込めて愛してくれるアンの優しいまなざしがすぐ隣にある。今、ヴァイオレットはこのふたりの男の瞳に守られている。
「アン、俺、ちょっと自宅に戻って着替えてくるよ。シャワーも浴びたいし」と航志朗が言った。するとアンは航志朗のために部屋を用意してあると言って、カードキーを航志朗に手渡して大声で言った。
「コーシの衣装も部屋に用意させてもらったよ。着替えたら、すぐに僕に電話しろよ。昼寝なんか絶対にするなよ!」
(やれやれ、……用意周到だな)
航志朗は思わず両肩を上げた。
航志朗はタクシーの精算をするために紙幣をインド系らしい高齢の運転手に手渡そうとした。だが、運転手はじっと微動だにせずに、賢者のように深遠な瞳で航志朗を凝視した。そして、運転手は航志朗に意外な言葉をかけた。
「サー、……あなたは、本日の花婿ですか?」
航志朗は、一瞬、目を大きく見開いた。
「まさか。私は花婿の友人ですよ」
運転手は航志朗の左隣を見て言った。
「私には、あなたが花婿に見えます。それから、あなたの花嫁が隣に座っている姿も見えます」
航志朗は一瞬背筋がぞくっとしたが、もちろん航志朗の隣には誰もいない。すぐに航志朗は気を取り直すと、かえって面白みを感じて冗談まじりに尋ねた。
「そうですか。では、私の花嫁はどんなひとに見えますか?」
「カワイイ花嫁。美人ではない」
運転手は大まじめに即答した。「カワイイ」だけは、日本語だった。
航志朗は笑みをこぼして、紙幣をさらに一枚追加して運転手に手渡した。
「ありがとう。占い代も払いますよ」
「サンキュー、グッドラック」
タクシーを降りると、背の高いターバン姿のドアマンが重厚なドアを開けた。磨きあげられた真っ白な大理石の床が生え、高い天井からの陽光が降り注ぐ明るい空間が目の前に広がった。
ロビーで航志朗の到着を待っていた顔見知りのアンの友人が、新郎新婦の控え室になっているスイートルームに案内すると言って、海外から帰ってきたばかりの航志朗をねぎらった。
「ミスター・キシ、お疲れじゃありませんか? 我われ中国系のウエディングバンケットは長丁場ですよ。かくいう私は、午前六時から主役たちにアテンドしています」
「ああ、例の結婚の慣習ですね? セレモニーの前に花婿が花嫁が待つ彼女の実家の部屋まで、友人たちを引き連れてお迎えに行く。花嫁の部屋には、花嫁とその友人たち、きょうだいたちが待ち構えていて、わざと花婿の邪魔をするという」
「おっしゃる通りです。アンは、あなたにも一緒に来てもらいたかったみたいですよ」
思わず航志朗は苦笑を浮かべた。
ふたりはホテルの奥に進んだ。観光客が立ち入れない二階に上がり、南国の植物が植栽された美しい中庭を見下ろしながら回廊を通り、スイートルームに着いた。
「コーシ、遅いよー!」
本日の花婿であるアンが、ぷうっと子どものように頬をふくらませながら、航志朗に抱きついた。アンはシルバーの燕尾服を着ていて、それが長身で細身の彼によく似合っている。
「コーシ、おかえりなさい!」
淡いピンクのシルク地にプラナカンスタイルの紫色のスミレの花の刺繍がほどこされた可憐なドレスを身にまとった花嫁が、アンの背後からやって来た。花嫁は頬を赤らめて航志朗にはにかんだ。
「ヴィー、ただいま」
航志朗は花嫁を優しいまなざしで見つめた。アンとこの花嫁は、航志朗にとって命の恩人である。長い間近くにいてふたりを見てきた。航志朗にはまったく不可能な、時にはあきれてしまうほどのピュアな男女関係だった。
(本当によかったな。俺は、君たちの幸せを心から願っているよ)
航志朗は心のなかで親友たちを祝福した。
そして、航志朗は花嫁を心から美しいと思った。結婚する予定も、さらにはこの先結婚するつもりもない航志朗にとって、一生縁のない花嫁の輝きがまぶしかった。
「ヴィー、きれいだ」と航志朗は目を細めて言った。航志朗の琥珀色の瞳に見つめられて、ヴァイオレット・ウォンは胸がときめいた。花嫁のヴァイオレットは頬を紅く染めて航志朗に微笑んだ。
ヴァイオレットは、航志朗に好意を寄せている自分の気持ちに気づいている。それは夫となるアンに対する愛情とは違う種類の、尊敬に似た感情だ。
ヴァイオレットは裕福な華僑の一族に生まれ育った。曾祖父母の時代は戦争と終戦後の復興で困難を極めたらしいが、ヴァイオレットはなんの不自由もなく育った。少なくとも表向きは。十四歳の時、アンと運命の出会いをした。それから十年後、ヴァイオレットはアンの妻になる。
ヴァイオレットは「うそ」が大嫌いだ。うそをつく人は、すぐわかる。どんなに隠していても、その瞳には必ずけがらわしい汚泥が浮かぶ。父がそういう人だ。子どもたちの前で父は母を愛していると言っているが、それはうそだ。なぜなら父にはずっと愛人がいるから。当然母はそれを知っている。そして、母もうそつきだ。いつも笑顔で幸せそうな妻のふりをしている。
今日は人生最良の日のはずなのに、ヴァイオレットは本当に朝からうんざりしていた。
伝統的な美しいドレスを身にまとうのは心ときめく。一生に一度の花嫁姿。そして、やっと今日から愛するアンとずっと一緒にいられる。いずれ可愛い赤ちゃんが生まれて、私はママになるだろう。でも、朝から私はうそばっかりのおべんちゃらに囲まれている。「美しい」だの「お幸せに」だの口先だけの祝福の言葉。吐き気がする。でも、わかっている。私だってうそつきだ。ゲストに笑顔をふりまく幸せな花嫁を演じている。花嫁の父と母の前で、これみよがしに。
航志朗はうそをつかない。彼の美しく透き通る琥珀色の瞳がそれを証明する。またアンもうそをつかない。アンと初めて出会った瞬間、その確信がヴァイオレットを貫いた。十四歳の時からずっと全身全霊を込めて愛してくれるアンの優しいまなざしがすぐ隣にある。今、ヴァイオレットはこのふたりの男の瞳に守られている。
「アン、俺、ちょっと自宅に戻って着替えてくるよ。シャワーも浴びたいし」と航志朗が言った。するとアンは航志朗のために部屋を用意してあると言って、カードキーを航志朗に手渡して大声で言った。
「コーシの衣装も部屋に用意させてもらったよ。着替えたら、すぐに僕に電話しろよ。昼寝なんか絶対にするなよ!」
(やれやれ、……用意周到だな)
航志朗は思わず両肩を上げた。