今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
安寿と航志朗は広いベッドの上で離れて横になった。ベッドルームの照明はフットライトだけが灯っている。また安寿は純白のシルクの毛布の肌触りに陶然としていた。大あくびが出て今すぐにでも眠れそうだ。
航志朗は自分に背を向けて横になった安寿の後ろ姿を見て切なく思った。
(こんなに近くにいるのに彼女に触れることができないなんて。以前の俺からは、まったく考えられないな)
だが、安寿を見つめていると、どうしようもない反応が航志朗にやって来てしまう。あせりながら自分をなんとか落ち着かせて、航志朗は安寿に尋ねた。
「安寿、いつから君は絵を描くようになったんだ?」
「覚えていません。ただ、小さい頃に、母と一緒に絵を描いた思い出があります」
「お母さんと一緒に、どんな絵を描いたんだ?」
いったん安寿は目を閉じてから、脳裏に浮かんだ遠い記憶を注意深く言葉に落とすようにして語り出した。
「お墓参りに行った時に桜並木のある川を通りましたよね。あそこの土手に母と散歩に行って、たんぽぽやつくしやクローバーを摘んだり、落ち葉を拾って来たりして、家の食卓にのせて描きました。クレヨンとか色鉛筆で。……あっ、そうそう、桜の花びらも描きました。ハンカチの上にいっぱい集めて」
「そうか。君のお母さんも絵が好きだったのか?」
「はい。母は芸術大学に行っていました。私を妊娠したので中退したと聞いています」
航志朗は妙に冷静な安寿の物言いに闇があるのを微かに感じた。そこには何か澱のようなものがたまっていた。
「亡くなったお母さんと一緒に絵を描いたことは、君にとっての楽しい思い出なんだね」とは、決して軽々しく言えなかった。航志朗は「この町は、私にとっては過去の町なので」と言いきった安寿の色のない横顔を思い出した。
その時、安寿は自分が航志朗のことを「航志朗さん」と呼んでしまったことを後悔していた。明らかに航志朗に対する心の距離を自分から縮めてしまったことを自覚した。
(ひとりになった私は、彼を本当の家族のように慕ってしまっている。こんなふうに一緒にひとつのベッドに寝ているなんて、きっと私は彼に心を許してしまっているんだ。……誰も私のなかに入って来てほしくないのに)
そして、ずっと心の奥底に封印していたことを安寿は思い出してしまった。
(今、ここでは、だめなのに……)
安寿は両方のこめかみを両手で強く押さえつけた。
航志朗は安寿の様子がおかしいことに気づいた。安寿はくるまった毛布の中で息苦しそうにしている。航志朗はとっさに起き上がって、安寿の様子をうかがった。
航志朗は努めて小さな声で訊いた。
「安寿、……どうした?」
安寿は毛布の中で聞き取りづらいほどの小声で言った。
「……大丈夫です」
航志朗は動いた。航志朗のなかの安寿を想う強い気持ちが航志朗を突き動かした。
「大丈夫じゃないだろ!」
航志朗は大声で怒鳴って安寿が掛けた毛布に手を伸ばして強引にめくり、安寿の顔を見た。薄暗い中でもわかるほどの青白い顔をして、安寿は自分の身体を両腕で抱えて震えていた。
航志朗はすぐに安寿を引き寄せて、後ろから力強く抱きしめた。安寿は一瞬びくっと身体を震わせて航志朗の腕の中から抜け出そうともがいたが、しっかりと航志朗は安寿を抱きすくめた。安寿は航志朗の胸に背中を密着させたまま動かなくなった。
しばらくして、安寿は混乱しながらかすれた声でつぶやいた。
「本当は、ママは、……母は、心を病んでいたんです。私と一緒に絵を描いてくれたのは、薬を飲んで落ち着いた時だった。もう、ずっと、ずっと、忘れていたけど」
航志朗は何も言えずに安寿を抱きしめた。安寿が池の底に沈んでしまわないように、ただひたすら自分の腕の中で震えている安寿を抱きしめた。
やがて、だんだんと落ち着いてきた安寿は力尽きたかのように目を閉じて眠ってしまった。航志朗は眠った安寿の黒髪を優しくなでながら、自分のなかに燃える炎のような熱い想いがわきあがってくるのを感じた。
航志朗は腕の中の安寿に誓った。
(安寿、俺が君を守る。全身全霊で君を守る)
そして、安寿を抱きしめたまま、航志朗も目を閉じた。
明くる朝、まだ薄暗いうちに安寿は目を開けた。ひとつの毛布の中で航志朗に後ろから抱きしめられていることに安寿は気がついた。顔を真っ赤にさせて安寿は動揺した。航志朗はぐっすりと眠っているが、しっかりと両腕で安寿を抱きしめている。不意に理性が安寿の頭のなかを駆けめぐった。
(まさか、私、彼と……)
いちおうパジャマを着ていることを確認してから、安寿は深くため息をついた。肩越しに眠った航志朗の顔を見て、安寿はきつく胸がしめつけられた。
(……彼は、絶対に好きになってはいけないひとなのに)
安寿はどうしようもなく胸が苦しくて航志朗から離れようとしたが、どうしても動けない。とうとう、安寿は自分の本心にあらがえずに、航志朗の方に向き直って両腕でしがみついた。航志朗のたくましい身体とその酔いしれるような匂いにもたらされる安らぎに安寿はまどろんだ。そして、安寿はまた深い眠りに落ちていった。
航志朗は自分に背を向けて横になった安寿の後ろ姿を見て切なく思った。
(こんなに近くにいるのに彼女に触れることができないなんて。以前の俺からは、まったく考えられないな)
だが、安寿を見つめていると、どうしようもない反応が航志朗にやって来てしまう。あせりながら自分をなんとか落ち着かせて、航志朗は安寿に尋ねた。
「安寿、いつから君は絵を描くようになったんだ?」
「覚えていません。ただ、小さい頃に、母と一緒に絵を描いた思い出があります」
「お母さんと一緒に、どんな絵を描いたんだ?」
いったん安寿は目を閉じてから、脳裏に浮かんだ遠い記憶を注意深く言葉に落とすようにして語り出した。
「お墓参りに行った時に桜並木のある川を通りましたよね。あそこの土手に母と散歩に行って、たんぽぽやつくしやクローバーを摘んだり、落ち葉を拾って来たりして、家の食卓にのせて描きました。クレヨンとか色鉛筆で。……あっ、そうそう、桜の花びらも描きました。ハンカチの上にいっぱい集めて」
「そうか。君のお母さんも絵が好きだったのか?」
「はい。母は芸術大学に行っていました。私を妊娠したので中退したと聞いています」
航志朗は妙に冷静な安寿の物言いに闇があるのを微かに感じた。そこには何か澱のようなものがたまっていた。
「亡くなったお母さんと一緒に絵を描いたことは、君にとっての楽しい思い出なんだね」とは、決して軽々しく言えなかった。航志朗は「この町は、私にとっては過去の町なので」と言いきった安寿の色のない横顔を思い出した。
その時、安寿は自分が航志朗のことを「航志朗さん」と呼んでしまったことを後悔していた。明らかに航志朗に対する心の距離を自分から縮めてしまったことを自覚した。
(ひとりになった私は、彼を本当の家族のように慕ってしまっている。こんなふうに一緒にひとつのベッドに寝ているなんて、きっと私は彼に心を許してしまっているんだ。……誰も私のなかに入って来てほしくないのに)
そして、ずっと心の奥底に封印していたことを安寿は思い出してしまった。
(今、ここでは、だめなのに……)
安寿は両方のこめかみを両手で強く押さえつけた。
航志朗は安寿の様子がおかしいことに気づいた。安寿はくるまった毛布の中で息苦しそうにしている。航志朗はとっさに起き上がって、安寿の様子をうかがった。
航志朗は努めて小さな声で訊いた。
「安寿、……どうした?」
安寿は毛布の中で聞き取りづらいほどの小声で言った。
「……大丈夫です」
航志朗は動いた。航志朗のなかの安寿を想う強い気持ちが航志朗を突き動かした。
「大丈夫じゃないだろ!」
航志朗は大声で怒鳴って安寿が掛けた毛布に手を伸ばして強引にめくり、安寿の顔を見た。薄暗い中でもわかるほどの青白い顔をして、安寿は自分の身体を両腕で抱えて震えていた。
航志朗はすぐに安寿を引き寄せて、後ろから力強く抱きしめた。安寿は一瞬びくっと身体を震わせて航志朗の腕の中から抜け出そうともがいたが、しっかりと航志朗は安寿を抱きすくめた。安寿は航志朗の胸に背中を密着させたまま動かなくなった。
しばらくして、安寿は混乱しながらかすれた声でつぶやいた。
「本当は、ママは、……母は、心を病んでいたんです。私と一緒に絵を描いてくれたのは、薬を飲んで落ち着いた時だった。もう、ずっと、ずっと、忘れていたけど」
航志朗は何も言えずに安寿を抱きしめた。安寿が池の底に沈んでしまわないように、ただひたすら自分の腕の中で震えている安寿を抱きしめた。
やがて、だんだんと落ち着いてきた安寿は力尽きたかのように目を閉じて眠ってしまった。航志朗は眠った安寿の黒髪を優しくなでながら、自分のなかに燃える炎のような熱い想いがわきあがってくるのを感じた。
航志朗は腕の中の安寿に誓った。
(安寿、俺が君を守る。全身全霊で君を守る)
そして、安寿を抱きしめたまま、航志朗も目を閉じた。
明くる朝、まだ薄暗いうちに安寿は目を開けた。ひとつの毛布の中で航志朗に後ろから抱きしめられていることに安寿は気がついた。顔を真っ赤にさせて安寿は動揺した。航志朗はぐっすりと眠っているが、しっかりと両腕で安寿を抱きしめている。不意に理性が安寿の頭のなかを駆けめぐった。
(まさか、私、彼と……)
いちおうパジャマを着ていることを確認してから、安寿は深くため息をついた。肩越しに眠った航志朗の顔を見て、安寿はきつく胸がしめつけられた。
(……彼は、絶対に好きになってはいけないひとなのに)
安寿はどうしようもなく胸が苦しくて航志朗から離れようとしたが、どうしても動けない。とうとう、安寿は自分の本心にあらがえずに、航志朗の方に向き直って両腕でしがみついた。航志朗のたくましい身体とその酔いしれるような匂いにもたらされる安らぎに安寿はまどろんだ。そして、安寿はまた深い眠りに落ちていった。