今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後一時すぎに、ふたりを乗せた車は岸家に到着した。車のエンジン音に気づいた伊藤が屋敷から飛び出してきた。咲もその後ろからエプロンで手を拭きながら出て来た。

 「安寿さま、おけがの具合はいかがですか!」

 伊藤は大声で叫ぶように言った。伊藤は車から降りて来た安寿の手を取って、丁重に安寿を支えようとした。安寿は伊藤の温かい手にほっとしながら言った。

 「伊藤さん、ご心配おかけして申しわけありませんでした。痛みは取れてきましたし、もう大丈夫です」

 「安寿さま……」

 伊藤は安寿の足のけがだけを心配しているのではなかった。伊藤は運転席から降りて来た航志朗をとがめるように見た。航志朗はその様子に両肩を上げて首を振った。

 (やれやれ、完全に誤解されているな……)

 いたわりに満ちたまなざしで咲が安寿に言った。

 「安寿さまのためにご昼食をご用意いたしました。どうぞお召しあがりくださいませ」

 咲は伊藤に代わって安寿の背中を支え、ふたりは屋敷に入って行った。

 伊藤が言いづらそうに小声で航志朗に言った。

 「航志朗坊っちゃん。咲にはご結婚のことをご内密にお願いいたします。彼女には安寿さまのご家庭の事情で、岸家でしばらくお預かりすることになったとだけ話しておりますので」

 航志朗はうなずいて言った。

 「わかりました、伊藤さん」

 屋敷の玄関ホールでは華鶴が待ち構えていた。

 「安寿さん、おけがは大丈夫なの? あら、素敵なワンピースね」

 安寿は華鶴にお辞儀してから言った。

 「華鶴さん、重ね重ねおわび申しあげます。けがの方はもう大丈夫です」

 そこへ航志朗が玄関に入って来た。華鶴は航志朗を冷ややかに一瞥し、航志朗はその華鶴の視線を完全に無視した。安寿はふたりの態度を不可解に感じたが、すぐに気を取り直して華鶴に礼を言った。

 「あの、このワンピース、航志朗さんに買っていただいたんです。ありがとうございました」

 華鶴は航志朗に意味ありげな視線を送ってから、安寿に微笑んで言った。

 「あら、それはよかったわね。とても安寿さんにお似合いよ。可愛らしいわ」

 そして、華鶴は安寿の手を取ると、「まずは昼食をいただきましょう」と言って、ふたりは食事室に向かった。航志朗も険しい顔をしてその後に続いた。

 咲は安寿のけがの養生のために、伊藤とインターネットであれやこれや調べて昼食のメニューを考えた。岸家の食事室のテーブルには、鶏肉をふんだんに使った手の込んだ料理が並んだ。鶏の手羽先と大根の煮物や鶏もも肉とパプリカとトマトの洋風煮込み、鶏胸肉の薬膳スープ、キウイフルーツとレモンとブロッコリーのサラダと、コラーゲンとビタミンCたっぷりのメニューだ。
 
 安寿は大変恐縮してしまった。咲と伊藤の温かい心遣いにどのように報いたらよいのかととても困惑した。
 
 やがて、岸が食事室にやって来て、安寿の肩にそっと手を置いて言った。その手は油絵具の匂いがした。

 「安寿さん、おけがは大丈夫ですか?」

 岸はその落ち着いた琥珀色の瞳で安寿を優しく見つめた。安寿は岸に敬愛に満ちたまなざしで微笑み、うなずいてから礼を言った。

 「はい。岸先生、ありがとうございます」

 今まで一度も見たことがない穏やかな表情を浮かべた安寿を目の当たりにして、航志朗は父に対して吐き気をもよおすような嫌悪感を持った。

 四人は席について湯気の立つ昼食をとった。

 華鶴が隣に座った岸に向かって、いつものように可愛らしく微笑みながら言った。

 「宗嗣さん。私、お肌がつやつやになるわね。安寿さんのおかげだわ」

 岸は華鶴に微笑みかけてから安寿にも笑いかけた。安寿はそんな仲むつまじいふたりを見て思った。

 (本当に素敵なご夫婦。いちおう私と航志朗さんも夫婦なんだよね……)

 思わず安寿は隣に座る航志朗の顔を見つめた。先程から黙々と航志朗は咲の手料理を口に運んでいる。心なしか航志朗が不機嫌そうに見えて、また安寿は不可解に思った。

 食後にサロンに移動すると、伊藤と咲がティーセットを用意した。華鶴が何やら分厚いカタログを数冊持って来てローテーブルの上に並べた。

 「ねえ、安寿さん。あなたのお部屋のカーテンの生地を選びましょうね。もちろんカーペットもよ。そうそう、この際だから、家具もすべて新調しましょう」

 一瞬、航志朗が華鶴をにらんだ。

 華鶴は膝の上にカタログをのせて、親しげにソファに座った安寿に身を寄せた。高級そうな香水の甘い香りが鼻をくすぐった。安寿は華鶴にうながされてカタログをめくると、様ざまな生地サンプルが並んでいた。どれも高価そうで安寿は気が引けてしまった。

 ティーポットを持った伊藤が華鶴に進言した。

 「華鶴奥さま。まずは、安寿さまにお部屋をご覧になっていただいてからがよろしいのではないでしょうか?」

 華鶴が航志朗を見ながら言った。

 「伊藤の言う通りね。航志朗さん、安寿さんをあなたの子どもの頃の部屋にご案内してくださらない?」

 ソファのすみでうつむいてコーヒーを啜っていた航志朗が顔を上げて安寿を見た。

 (……航志朗さんの子どもの頃の部屋?)と安寿は思った。

< 64 / 471 >

この作品をシェア

pagetop