今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 日が傾きかけた頃、安寿と航志朗は岸家を後にした。咲が風呂敷包みを二つ持たせてくれた。何も知らない咲は、「航志朗坊っちゃんのお夕食です。よろしかったら、安寿さまもどうぞ」とにこにこ笑って言った。

 航志朗がエンジンをかけようとした時に、助手席に座ってシートベルトを締めようとした安寿は、これから自分の部屋になる航志朗の子どもの頃の部屋の窓を見上げた。

 その瞬間、安寿は切実に思った。

 (航志朗さんは、子どもの頃の大切な思い出を失ってはだめ!)

 すぐに安寿は「ちょっと待ってください」と航志朗に言った。首を傾げた航志朗の目の前で車から降りて、安寿は玄関の前で咲と車を見送っていた伊藤のところに足を引きずって行った。

 伊藤は少し驚いて言った。

 「安寿さま、何かお忘れ物でしょうか?」

 「伊藤さん、お願いがあります。あのお部屋にあった航志朗さんの子どもの頃のお品物を捨てないで、そのままにしておいていただけませんでしょうか」

 それは安寿にしては珍しく、力強い口調だった。

 伊藤は突然の安寿の言葉に戸惑っていたが、安寿は「伊藤さん、お願いします」と頭を下げて車に戻った。

 安寿は「お待たせしました」とひとことだけ言って、黙ってシートベルトを着けた。航志朗は怪訝に思ったが、何も安寿に尋ねずに車を出した。

 車を見送った咲が伊藤に言った。

 「安寿さまは、あの箱の中身をごらんになられたのかしら?」

 「さあ、わからないな」

 「ねえ、秀爾(しゅうじ)さん。航志朗坊っちゃんは、安寿さまのことをどう思っていらっしゃるのかしら? 私には航志朗坊っちゃんが安寿さまを……」

 「咲、それ以上は言うな」

 「はい。……ごめんなさい」

 そう伊藤に謝ったものの、咲は胸の内でこっそりと思った。

 (航志朗坊っちゃんが安寿さまをごらんになるお優しいまなざしったら、ああ、ため息が出てしまうわ……)

 咲は急に心に浮かんできた期待に頬を赤らめて、胸が弾んでしまった。
 
 (ずっとあきらめていたけれど、いつか航志朗坊っちゃんの赤ちゃんを抱っこできる日が来るかもしれないわね……)

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