今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後六時すぎに、ふたりは航志朗のマンションに戻って来た。航志朗は安寿にこれから少し仕事をしたいから先に風呂に入ってきたらと提案した。安寿は航志朗の言葉にうなずいて、洗濯物を洗濯乾燥機にかけてから風呂に入った。バスタブに浸かってやっとひと息ついた安寿は、航志朗の子どもの頃の部屋のブックシェルフに並んでいた図鑑のことを思い出した。

 それは航空機の図鑑だった。たぶん航志朗の子どもの頃のお気に入りの本だったのだろう。読み倒されてぼろぼろになっていた。安寿は湯気で白く曇ったバスルームの高い天井を見上げた。果てしなく続く空に浮かぶ雲のようだ。湯の中で膝を抱えて安寿は思った。

 (もうすぐ、彼は空の彼方へ飛び立ってしまうんだ……)

 安寿がリビングルームに戻って来ると、キーボードを打つ手を止めた航志朗が立ち上がって温かいほうじ茶を淹れた。

 重箱を開けて、ふたりは咲の手料理を食べた。重箱には昼食と同じ料理といなり寿司がたくさん詰められていた。安寿は全部食べきれなかったが、航志朗がその残りを平らげた。航志朗は食事が済んだら、すぐにまた仕事を始めた。安寿は重箱を洗って布巾で丁寧に拭いてから、洗濯物をたたんだ。それからほうじ茶を飲みつつ、航志朗の姿を頬杖をついて見ていた。

 とても静かな時間だった。リビングルームの中には航志朗がキーボードを打つ音だけしかしない。

 安寿の気持ちは不思議なくらいに安らいでいた。航志朗は安寿が穏やかに自分を見つめていることに気づいた。今夜も安寿と一緒に過ごしていることを意識して、航志朗の胸がうずいた。

 「さてと、このくらいにしておくか」とひとりごとを言って、航志朗はノートパソコンを閉じてバスルームに行った。

 しばらくしてから航志朗がリビングルームに戻って来ると、安寿がソファに寄り掛かってうとうとしていた。航志朗は安寿をそっと起こした。

 「安寿、風邪をひくからベッドで横になったら」

 ぼんやりと安寿は航志朗を見つめて言った。

 「はい。航志朗さんと一緒に行きます」

 航志朗は顔を赤らめて安寿の手を取った。

 「じゃあ、一緒に行こうか」

 素直に安寿は航志朗の手を握り返した。航志朗は安寿の手を引いて階段を上りながら、心から切なく思った。

 (……わかってる。彼女は俺を男として見ていない)

 安寿はおとなしく先にベッドの上で仰向けになると毛布を胸まで掛けて目を閉じた。そのまったくの無防備なふるまいに思わず航志朗は苦笑いした。

 まだ十時だ。航志朗にはぜんぜん眠気が訪れていなかった。窓の外を見上げると、十五夜の満月を待つ待宵の月を連想させる少しだけ欠けた月が出ていた。航志朗はベッドルームの照明を消してからカーテンを半分開けて月明かりを招き入れた。そして、自分の腕を枕にして安寿の方を向いて横になった。

 (このまま朝まで、ずっと安寿を見ていられる。僥倖としか言いようがない。たとえ彼女に触れられなくても構わない)

 その時、ふと安寿が目を開けて言った。

 「……航志朗さん」

 「ん? 起きていたのか、安寿」

 月明かりに青白く照らされた安寿は、この世のものではないと思ってしまうほどに美しかった。航志朗は、今、ここにいる安寿の存在を全身全霊で感じていた。

 安寿は仰向けになって天井を見上げたまま、静かにつぶやくように航志朗に尋ねた。

 「……飛行機に乗って空に飛び立つのって、どんな感じですか?」

 「そうだな……」

 思いもよらない安寿の問いかけに航志朗は答えあぐねた。

 また安寿は航志朗に訊いた。

 「航志朗さんが初めて飛行機に乗ったのはいつですか?」

 「一歳になった時と聞いている。両親とパリに行ったらしい。ぜんぜん覚えていないけど」

 航志朗は数えきれないほど経験した空へ飛び立つ瞬間を、初めて言葉で言い表そうと思い立った。しばらく目を閉じてから、航志朗はおもむろに言い出した。

 「離陸する瞬間、地面を蹴る感覚がある。すると、ふわっと身体が宙に浮くんだ。身体がものすごく軽くなる。身体だけじゃない。心もだ。とても気持ちがいいよ」

 「そうですか。私は飛行機に乗ったことがないんです。でも、乗ってみたいとは思いません」

 「どうして?」

 「……怖いから」

 航志朗は小さな女の子みたいなことを言う安寿を心から愛おしく思った。

 「安寿、いつか一緒に飛行機に乗ろう。大丈夫。俺が君の手をずっと握っているから」

 安寿は目を閉じて言った。

 「……今、握ってくれますか」

 「もちろん、いいよ」

 航志朗は安寿の温かい手を握った。航志朗の手はひんやりと冷たくて安寿はなぜか哀しくなった。

 「本当は、私、とても怖い。いろいろなことが……」

 安寿は消え入るような声でそうつぶやくと眠りに落ちた。

 航志朗は安寿をしばらく見つめていた。やがて、そのまま航志朗も目を閉じた。

 月明かりの下でふたりは深い池の底に沈んでいるようだった。互いにしっかりと手をつなぎながら。


























 


 







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