今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その部屋も上品ではあるが、だだっ広いスイートルームで、中央に大きなキングサイズのベッドが鎮座している。航志朗はとりあえず豪華なバスルームでやけに重たいシャワーヘッドと格闘しつつシャワーを浴びた。そしてふかふかのバスローブを羽織り、ミネラルウォーターを飲んだ。テーブルの上に置かれた数種類のフルーツが盛られたバスケットがふと目に入った。中から小ぶりの青リンゴを取ってかじり、航志朗はベッドに腰掛けた。
 
 西向きの窓を開けると、心地よいそよ風が入って来た。航志朗は、この土地特有の南国のフルーツが甘く香ってくるような風が気に入っている。まさに「優美(グレース)」という言葉が似合う風だ。そして花嫁のドレスの淡いピンク色が、ふと航志朗に母国の桜の花の色香を思い出させた。

 (最後に桜を見たのは、……いつだ?)

 航志朗は東京の私立中学校を卒業した後、単身でイギリスに渡った。十五歳の時だった。もう両親とこの家にはいられないと思い、必死で英語を習得し、家出同然で日本を離れた。渡航先がどうしてイギリスだったのか、それは航志朗自身にもわからない。生まれ育った家を出て遠くに行かなければならなかったのだ。ただこの世界で生き延びるために。
 
 あれから十年近く経つ。あの家には一度も帰っていない。航志朗は広いベッドの上に力尽きたかのように仰向けになった。そして、航志朗は目を閉じた。

 その日の陽光が傾きかけ、西日が航志朗の顔にかかった。航志朗はうっすらと目を開けた。

 (……今、俺は、どこにいるんだ?)

 航志朗は横になったまま、辺りを見回した。

 (ああ、そうか。あのまま眠ってしまったのか)

 隣に誰かが寝ているような気がした。航志朗は通り過ぎていった(ひと)たちの影をそこに見た。でも、ひとりも顔が思い出せない。航志朗はため息をついた。こんな無駄に広いベッドに寝ているからだと航志朗は思った。

 スマートフォンの時刻を見ると、午後五時すぎになっている。着信履歴はなかった。きっとヴァイオレットが航志朗を気づかって休ませてくれたのだろう。呼び出そうとするアンを阻止して。

 航志朗はクローゼットを開けて、アンが用意してくれたセレモニー用の衣装を取り出した。華やかな光沢があるダークネイビーのスーツと白いシルクタフタのシャツだ。袖を通すとサイズがぴったりで、思わず航志朗は苦笑いした。おそらくアンの長姉夫婦が経営しているテーラーで仕立てたものなのだろう。

 身支度を整えると、アンのスマートフォンに連絡を入れた。にぎやかな音楽と話し声を背にアンが大声で怒鳴った。

 『コーシ、やっぱり寝てたのか? もう、寝すぎだよ、おまえ! 何回も電話しようとしたんだけど、ヴィーに止められた。あ、今からそっちにヘアメイクアーティストが行くから、髪、カッコよく整えてもらって!』

 「……ヘアメイクアーティスト?」

 すぐに部屋のインターホンが鳴り、大きな黒いボックスを抱えた上から下まで黒ずくめの男女が入って来た。男は自分で適当に整えた航志朗の髪をプロフェッショナルにヘアアレンジし、航志朗の眉毛までカットして整えた。
 
 メイクブラシで航志朗の頬をはらった男が、突然甲高い声で言った。
 
 「パーフェクト! あなた、いい男ね。背は高いし、スーツの上からでもわかっちゃう引き締まった筋肉質の身体。もうドキドキしちゃう。漆黒の髪はさらさらしていてヘアアレンジのやりがい満載だし、顔立ちもノーブルに整っているし、鼻の形もエクセレント! なんと言っても、その美しいアンバーアイ! ああ、吸い込まれちゃうわ!」と大騒ぎして話が止まらない。航志朗は面倒くさそうに顔をしかめた。

 後ろで控えていた女がショップカードを航志朗に手渡して不愛想に言った。

 「ミスター・キシ、お気に召しましたら、こちらへ。貴殿のご来店を心よりお待ちしています」

 女は航志朗を見つめてうっとりしている男を強引に引っぱって、部屋から出て行った。

 呆然としながら、航志朗は姿見に映った自分の全身を見て思った。

 (ただの花婿の友人なのに、ドレスアップしすぎじゃないのか……)

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