今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は九彩堂に向かった。その店は銀座の外れにあった。専用駐車場がなかったので、近隣の高級スーパーマーケットの駐車場に車を停めた。
 
 老舗日本画材料店の九彩堂は古めかしいビルの五階にあった。エレベーターの操作盤のスイッチには今時珍しい押しボタンが並んでいた。薄暗い旧式のエレベーターに乗ると心なしか妙な揺れ方をして、怖くなった安寿は思わず航志朗の左腕にしがみついた。

 航志朗は左腕に安寿の温もりを感じながら、子どもの頃に祖母の買い物について行った時、このエレベーターが怖くて祖母の細い腕に安寿のようにしがみついたことを思い出した。その時に微笑んでいた祖母の優しい顔も鮮明に航志朗の脳裏に浮かんだ。祖母も航志朗と同じ琥珀色の瞳をしていた。

 無事に五階に到着すると、店の入り口で雪乃から連絡をもらっていた九条千里(くじょうちさと)がふたりを出迎えた。千里は藤紫色の和服を上品に着こなしていた。

 「航志朗さま、ご無沙汰しております。新之助さまのご葬儀以来ですね。ご立派にお成りになられて嬉しく思います」

 千里は顎のラインまでボブカットに切りそろえた真っ白な頭を下げた。航志朗も「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀をした。安寿もあわてて航志朗に倣った。

 「ご結婚されたそうで、誠におめでとうございます」と千里は言って、安寿を静かに見つめた。安寿は千里のどこまでも透き通った実直な瞳に、自分の心の奥を見透かされたような気がした。戸惑いを感じた安寿は、心もとなく航志朗の顔を見上げた。航志朗はそんな安寿の手をそっと握った。

 「あ、あの、私、日本画のことを全然知らないのですが、画材を見せていただけますか」

 しどろもどろに安寿が千里に言った。

 航志朗が安寿の言葉を補足した。

 「妻の安寿は美術を学んでいまして、三枝さんの大奥さまに、こちらのことをうかがって参りました」

 (「妻の安寿」って!)

 安寿は世にも恥ずかしくなって下を向いた。

 千里は何か言いたげな様子だったが、穏やかに微笑みながら白檀の香りがする店内を案内した。よく磨きこまれた古い木製の棚には、様ざまな種類の日本画筆や白磁の乳鉢、絵皿や梅皿が並んでいる。

 そこは時間が止まったような静謐な空間だった。安寿は天然岩絵具が整然と並んだ大きな棚の前でふと立ち止まった。ひと目で安寿は驚嘆した。この地上に揺るぎなく存在する美しい自然の色彩が凝縮されて一望できる。地球そのものを見つめているかのようだ。一気に心躍った安寿は目を見開いて、隣にいる航志朗の手を引いて夢中になって言った。

 「航志朗さん、航志朗さん! なんて美しいの!」

 航志朗はその安寿の興奮した姿に腹の底から大笑いして面白がった。

 (来た、来た。安寿の好奇心が)

 「安寿さま。天然岩絵具は鉱物を砕いてから粉にして、精製したものでございます。例えば、こちらの岩群青は藍銅鉱という鉱物が原料です。古来より青の顔料として使われてきました」と千里が説明して、安寿の手のひらに青い粉が入った大きなガラス瓶を置いた。安寿は食い入るようにそれを見つめた。

 「藍銅鉱、アズライトですね」と航志朗が言うと、千里はうなずいた。

 「岩絵具は(にかわ)などで練ってから描きます。安寿さま、ご遠慮なくお手に取って、ごゆっくりご覧くださいませ」

 千里も安寿の好奇心丸出しの様子に微笑んだ。

 
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