今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後三時すぎに、ふたりはマンションに戻った。結局のところブランチになった朝食しか食べていないふたりは、先程スーパーマーケットで買って来た沖縄県産パイナップルをカットして食べた。その後、航志朗は仕事をしようとノートパソコンを開けたが、すぐに思い直した。

 (明日には安寿と離れることになるんだ。仕事なんかしている場合じゃないだろ)

 その時、安寿は航志朗に見つからないように洗濯をしたり、こっそりとトイレ掃除をしたりしていた。けがをしているのに家事をしていることが見つかったら、きっと航志朗に止められると思ったからだ。それから、安寿はキッチンに行って、二人分のほうじ茶を淹れてダイニングテーブルに運んだ。礼を言ってほうじ茶を飲んだ航志朗は頬杖をついて安寿の瞳をしばらく見つめてから、ふと思いついて尋ねた。
 
 「安寿、君は俺の瞳の色を怖いって、思わないか?」

 安寿は航志朗の突然の質問になんと言って答えたらよいのか考えあぐねた。目の前の航志朗の琥珀色の瞳には哀しそうな陰影が浮かんでいるような気がした。

 「子どもの頃、周りからよく言われたんだ。俺の目の色が怖いって」

 黙って安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。今、本当のことを言わなかったら、きっと航志朗を傷つけてしまうだろうと安寿は直感した。

 「はじめは怖いと思いました。でも、航志朗さんの瞳の色が怖いんじゃなくて、あの、なんて言うか……」

 航志朗は一度うなずいてから安寿の言葉の続きを待った。

 「ずっと年上の大人の男の人だから、怖いと思いました。でも、今は……」

 「今は?」

 航志朗の胸が高鳴る。

 「今は、……ほっとします」

 安寿はささやくような小声で言ってから顔を真っ赤にして下を向いた。安寿は涙が出そうになったが、必死に我慢した。

 航志朗は静かに立ち上がった。そして、椅子に座った安寿の後ろに行き、安寿をそっと背後から抱きしめて言った。

 「……ありがとう、安寿」

 安寿と航志朗はしばらくの間そうしていた。胸をどきどきさせた安寿は目を閉じて航志朗の温もりを感じた。

 それから、安寿は航志朗の背後に恵真の姿を思い浮かべた。
 
 「あの、航志朗さん。もしよろしかったら、おばあさまのお話を聞かせてくださいませんか?」

 ふたりはソファに移動した。安寿はソファの端に座って航志朗から距離を取ろうとしたが、航志朗は安寿の隣に座って、腕を安寿の肩に回して引き寄せた。そのまま素直に安寿は航志朗に寄り掛かった。そんな自分に内心で驚きながら、安寿は航志朗の顔を見上げた。航志朗はさびしげなまなざしで安寿を見つめ返してきた。その陰りがある表情を見て、安寿はきつく胸がしめつけられた。

 航志朗はやや言いづらそうに語り始めた。

 「俺の祖母は、……曾祖父の不貞の子どもなんだ。曾祖父が仕事で渡欧していた時に、フランスで生まれたらしい。第二次世界大戦がはじまる直前に、二歳の祖母を連れて曾祖父は無事に帰国した。そして、曾祖父は祖母の母親のことを誰にも話さなかった」
  
 その瞬間、安寿の両目から涙がこぼれ落ちて、航志朗の腕を濡らした。

 「航志朗さんのおばあさまは、とても、とても、お母さんに会いたかったでしょうね」

 「……そうだな」

 航志朗は安寿の心の奥に隠された想いが激流となって、自分のなかに流れこんで来たかのように感じた。航志朗はそれを本気でつかみ取ろうとしてもがいた。

 (俺にとって、安寿は本当にかけがえのない特別な存在なんだ)

 航志朗は心の底からわきあがってくる想いに突き動かされて、力を込めて安寿をきつく腕の中に抱きしめた。

 安寿は自分の本心と闘っていた。

 (だめだめ! 彼はずっと一緒にいられるひとじゃないんだから)

 安寿は航志朗にしがみつこうとする自分を懸命になって抑えた。

 その時、場違いに航志朗の腹が鳴った。ふたりは思わず顔を見合わせた。すぐに安寿は航志朗の腕の中から抜け出して言った。

 「お腹が空きましたね。そろそろ夕食をつくり始めますね。待っていてください、航志朗さん」

 「安寿、足は大丈夫なのか?」

 「もう大丈夫です」と言って、安寿は目をこすりながらキッチンに向かった。

 (俺はもう彼女と離れたくない!)

 遠ざかって行く安寿の背中を見つめて、航志朗はこぶしを固く握りしめた。

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