今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
小一時間ほどして、航志朗の予想通りに食欲をそそるグラタンのクリーミーな香りがしてきた。ソファで腕を組んでうとうとしていた航志朗はその香りに目が覚めた。航志朗にはいつのまにか毛布が掛けられていた。航志朗はキッチンに行き、オーブンレンジの中をのぞき込んで言った。
「おおっ、おいしそうだな!」
安寿がにっこり笑って言った。
「私のおばあちゃんのレシピです。叔母から教えてもらったんです」
おいしそうなこげ目がついた熱あつのグラタンとオニオンスープ、ブロッコリーと人参の温野菜のサラダが夕食の食卓に並んだ。
「いちおうご飯を炊いたんですが、パンにしますか?」と安寿が尋ねると、航志朗は「いや、日本にいる間はできるだけご飯が食べたいんだ」と言って、自ら大盛りに炊きたてのご飯をよそった。
「おいしい、おいしい」と何回も言って食べる航志朗の姿を見て、安寿は微笑みながら自分もグラタンをふうふうと息を吹いて冷ましながら口に運んだ。
航志朗はその可愛らしいしぐさを見つめて、胸があふれるほどに満たされながら思った。
(もう、安寿が愛おしくて愛おしくてたまらない。これからは絶対に早く帰って来る! って、……海外からだけど)
航志朗が後片づけをしている間に、先に安寿は風呂に入った。風呂から出た安寿はポーチを洗面脱衣室に持って来るのを忘れたことに気づいて、髪が濡れたままでリビングルームに取りに行った。ソファに座ってスマートフォンを見ていた航志朗は、初めて見る濡れ髪の安寿がいきなり目の前を通って呆然とし、思わず持っていたスマートフォンを床に落とした。安寿は落ちたスマートフォンを拾い上げて航志朗に手渡してから、ポーチを持って洗面脱衣室に戻った。安寿の姿を目で追った航志朗は、ソファの背もたれに額を押しつけて思った。
(二つ目は、安寿と一緒に風呂に入りたいって言えばよかった。まあ、速攻で断られるだろうけど)
この一週間で、すっかりバスタブに浸かって風呂に入る習慣が十数年ぶりについた航志朗は、今夜も安寿が浸かった湯をゆっくりと楽しんでからリビングルームに戻って来た。
ブックシェルフの前に座り込んで大型の画集を熱心に見ている安寿の姿が航志朗の目に入った。航志朗はかがんで安寿の見ている画集を後ろからのぞき込んだ。
「……ラファエル前派の画集?」
突然、後ろから話しかけられた安寿は驚いて振り返り、頬が航志朗の顔と触れそうになった。あわてて安寿は航志朗から離れて、顔を赤らめながら言った。
「はい。私、ラファエル前派の絵が好きなんです。小学生の時、東京で展覧会があったので、叔母と一緒に観に行きました。その時、あまりの美しさにびっくりして、私、絵の前で泣いてしまいました。叔母は私が泣くのを見て、もっとびっくりしていましたけど」
それを聞いて航志朗は肩を震わせて笑った。そして、安寿の瞳をのぞき込んで微笑みながら言った。
「俺もロンドンの美術館で観たことがあるよ。……俺も好きな絵だ」
安寿はまじまじとカラーページに目を落として、ひとりごとのようにつぶやいた。
「どうやって描くんだろう。暗喩に満ちた森の風景や、ドレスをまとった女性のまだ微かに生温かい肌の質感まで感じさせる細密描写。今、この瞬間を切り取ったような迫力で目に見えない感情をも感じさせてくれるような絵。私もいつか絵に描いてみたい。目に見えるようで目に見えない美しいものを」
そんな安寿を横から航志朗は優しいまなざしで見つめた。
「このキャプションて英文だから、ところどころしかわからなくて、もどかしい。もっともっと英語を勉強しなくちゃだめですね」
安寿はため息をつきながら少し肩を落とした。航志朗は首を傾けると両眉を上げて言った。
「安寿、俺のことを忘れていないか。どこがわからないんだ? 俺が翻訳するよ」
はっと安寿は気づいて航志朗の顔をまじまじと見つめてから、なるほどと納得した。
安寿と航志朗はベッドの上でそれぞれ毛布にくるまりながら、うつぶせになって画集を広げた。安寿はあるページのキャプションを指さした。
「ここって、たぶんとても抽象的なことが書かれていますよね。ちんぷんかんぷんです」
笑いながら航志朗がそれをいとも簡単に訳した。それから、航志朗は安寿が理解しやすいように噛みくだいて説明した。思わず安寿は航志朗の顔を見て思った。
(航志朗さんって、本当に優秀なひとなんだ)
安寿は肩に航志朗の温もりを感じた。それに、身体がとろけるように陶酔してしまう航志朗の匂いも。
(彼と一緒にいると、本当にほっとする……)
だんだん安寿の意識は薄れていった。
「ええと、それから、『中世や初期ルネサンスの芸術に着想を得て、家具、建築、服装などを正確にイギリスの歴史に照らし合わせて、自然に忠実であることを……』って、退屈で眠くなりそうだな、安寿。……ん?」
安寿は航志朗の肩に寄りかかり、すでに深い眠りに落ちていた。航志朗は力が抜けたように微笑んで、そっと安寿を横たえて毛布を掛け直した。
(ほっとする俺とくっついていたら、まあ、すぐに眠くもなるよな。それにしても、どきどきする俺にはいつなれるんだろう)
思わず航志朗は苦笑いした。
航志朗は眠る安寿の顔をしばらく見つめていた。辺りはしんと静まり返り、この世界には安寿と自分しか存在していないかのような親密な感じがした。
(しばらく会えないんだから、いいよな……)
眠っている安寿の少し開いた唇に、航志朗はそっとキスした。一瞬、航志朗の身体の中に目くるめくような情欲が走ったが、航志朗はそれをただ俯瞰して見ただけだった。
安寿に寄り添ってその安らかな寝顔を見つめながら、航志朗は目を閉じた。
「おおっ、おいしそうだな!」
安寿がにっこり笑って言った。
「私のおばあちゃんのレシピです。叔母から教えてもらったんです」
おいしそうなこげ目がついた熱あつのグラタンとオニオンスープ、ブロッコリーと人参の温野菜のサラダが夕食の食卓に並んだ。
「いちおうご飯を炊いたんですが、パンにしますか?」と安寿が尋ねると、航志朗は「いや、日本にいる間はできるだけご飯が食べたいんだ」と言って、自ら大盛りに炊きたてのご飯をよそった。
「おいしい、おいしい」と何回も言って食べる航志朗の姿を見て、安寿は微笑みながら自分もグラタンをふうふうと息を吹いて冷ましながら口に運んだ。
航志朗はその可愛らしいしぐさを見つめて、胸があふれるほどに満たされながら思った。
(もう、安寿が愛おしくて愛おしくてたまらない。これからは絶対に早く帰って来る! って、……海外からだけど)
航志朗が後片づけをしている間に、先に安寿は風呂に入った。風呂から出た安寿はポーチを洗面脱衣室に持って来るのを忘れたことに気づいて、髪が濡れたままでリビングルームに取りに行った。ソファに座ってスマートフォンを見ていた航志朗は、初めて見る濡れ髪の安寿がいきなり目の前を通って呆然とし、思わず持っていたスマートフォンを床に落とした。安寿は落ちたスマートフォンを拾い上げて航志朗に手渡してから、ポーチを持って洗面脱衣室に戻った。安寿の姿を目で追った航志朗は、ソファの背もたれに額を押しつけて思った。
(二つ目は、安寿と一緒に風呂に入りたいって言えばよかった。まあ、速攻で断られるだろうけど)
この一週間で、すっかりバスタブに浸かって風呂に入る習慣が十数年ぶりについた航志朗は、今夜も安寿が浸かった湯をゆっくりと楽しんでからリビングルームに戻って来た。
ブックシェルフの前に座り込んで大型の画集を熱心に見ている安寿の姿が航志朗の目に入った。航志朗はかがんで安寿の見ている画集を後ろからのぞき込んだ。
「……ラファエル前派の画集?」
突然、後ろから話しかけられた安寿は驚いて振り返り、頬が航志朗の顔と触れそうになった。あわてて安寿は航志朗から離れて、顔を赤らめながら言った。
「はい。私、ラファエル前派の絵が好きなんです。小学生の時、東京で展覧会があったので、叔母と一緒に観に行きました。その時、あまりの美しさにびっくりして、私、絵の前で泣いてしまいました。叔母は私が泣くのを見て、もっとびっくりしていましたけど」
それを聞いて航志朗は肩を震わせて笑った。そして、安寿の瞳をのぞき込んで微笑みながら言った。
「俺もロンドンの美術館で観たことがあるよ。……俺も好きな絵だ」
安寿はまじまじとカラーページに目を落として、ひとりごとのようにつぶやいた。
「どうやって描くんだろう。暗喩に満ちた森の風景や、ドレスをまとった女性のまだ微かに生温かい肌の質感まで感じさせる細密描写。今、この瞬間を切り取ったような迫力で目に見えない感情をも感じさせてくれるような絵。私もいつか絵に描いてみたい。目に見えるようで目に見えない美しいものを」
そんな安寿を横から航志朗は優しいまなざしで見つめた。
「このキャプションて英文だから、ところどころしかわからなくて、もどかしい。もっともっと英語を勉強しなくちゃだめですね」
安寿はため息をつきながら少し肩を落とした。航志朗は首を傾けると両眉を上げて言った。
「安寿、俺のことを忘れていないか。どこがわからないんだ? 俺が翻訳するよ」
はっと安寿は気づいて航志朗の顔をまじまじと見つめてから、なるほどと納得した。
安寿と航志朗はベッドの上でそれぞれ毛布にくるまりながら、うつぶせになって画集を広げた。安寿はあるページのキャプションを指さした。
「ここって、たぶんとても抽象的なことが書かれていますよね。ちんぷんかんぷんです」
笑いながら航志朗がそれをいとも簡単に訳した。それから、航志朗は安寿が理解しやすいように噛みくだいて説明した。思わず安寿は航志朗の顔を見て思った。
(航志朗さんって、本当に優秀なひとなんだ)
安寿は肩に航志朗の温もりを感じた。それに、身体がとろけるように陶酔してしまう航志朗の匂いも。
(彼と一緒にいると、本当にほっとする……)
だんだん安寿の意識は薄れていった。
「ええと、それから、『中世や初期ルネサンスの芸術に着想を得て、家具、建築、服装などを正確にイギリスの歴史に照らし合わせて、自然に忠実であることを……』って、退屈で眠くなりそうだな、安寿。……ん?」
安寿は航志朗の肩に寄りかかり、すでに深い眠りに落ちていた。航志朗は力が抜けたように微笑んで、そっと安寿を横たえて毛布を掛け直した。
(ほっとする俺とくっついていたら、まあ、すぐに眠くもなるよな。それにしても、どきどきする俺にはいつなれるんだろう)
思わず航志朗は苦笑いした。
航志朗は眠る安寿の顔をしばらく見つめていた。辺りはしんと静まり返り、この世界には安寿と自分しか存在していないかのような親密な感じがした。
(しばらく会えないんだから、いいよな……)
眠っている安寿の少し開いた唇に、航志朗はそっとキスした。一瞬、航志朗の身体の中に目くるめくような情欲が走ったが、航志朗はそれをただ俯瞰して見ただけだった。
安寿に寄り添ってその安らかな寝顔を見つめながら、航志朗は目を閉じた。