今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第6節

 出しぬけに安寿は目を覚ました。まだ部屋の中は薄暗い。かたわらには航志朗が深い寝息をたてて眠っている。ずいぶんと長い時間、安寿は目を閉じた航志朗の顔を見つめていた。

 (もう、彼の寝顔を見ることはない)と安寿は思った。思いがけない結婚をしてからこの一週間、仮初めの夫になってくれた航志朗と一緒に過ごした。航志朗は多大な犠牲を払って、自分に自立するチャンスを与えてくれた。安寿は航志朗に心から感謝した。

 (航志朗さん、本当にありがとうございます。でも、今日、私はここから出て行きます

 
 航志朗を起こさないようにベッドから降りようとした安寿はふと振り返り、眠る航志朗の顔を見た。そして、安寿は吸い込まれるように航志朗の頬にそっと唇を寄せた。そこはひやっと冷たかった。急に我に返った安寿は真っ赤になって、胸の鼓動を早めながら航志朗から離れた。そして、ウォークインクローゼットに掛けてあったクリーニング済みの制服を抱えて、安寿はベッドルームを静かに出て行った。

 ほのかに明るくなってきたリビングルームで、安寿は黙々と制服に着替えた。時計を見ると午前六時だった。安寿はいつでもすぐに出て行けるようにと身支度を整えた。マウンテンリュックサックに持ち物も詰めた。包帯を巻いた左足もすりむいた左膝もまだ痕跡はありありと残ってはいるが、もうひどい痛みはなくなった。あれからずいぶんと長い時間が経ったのだ。本当に長い長い一週間だった。そして、一度だけ深呼吸をしてから、安寿はキッチンに向かった。

 ベッドの上で身体を動かした航志朗はシーツの上を無意識にまさぐったが、まったく手ごたえがない。身も心も夢心地だったのが、急に虚しさに襲われた。航志朗は焦燥感に駆られて目を開けた。そこに安寿の姿はなかった。

 「……安寿?」

 あわてて航志朗は飛び起きて、荒々しくドアを開けてベッドルームから出て行き、階段を駆け下りた。そして、リビングルームに転がりこむと、すぐに奥のキッチンでガスコンロにかけられた鍋を見つめながら、安寿がたたずんでいるのが目に入った。

 航志朗はそのまま安寿に向かって突進して行った。航志朗に気づいた安寿はその切羽詰まった様子に顔色を変えて、思わず後ずさりした。航志朗は手を伸ばしてそのまま安寿に飛びつき、力いっぱいに抱きしめた。

 「安寿!」

 「こ、……航志朗さん?」

 航志朗は無言で安寿をきつく抱きしめた。安寿は航志朗のたくましい腕とその引き締まった胸が醸し出す匂いに酩酊した。安寿は身体じゅうの力が抜けてしまい両腕をだらんとたらして、航志朗のなすがままに身を任せた。しばらくふたりはそのままでいた。やがて、航志朗の腕の中で、安寿はやっとの思いで訴えた。

 「こげちゃいます。そろそろガスを止めないと」

 だが、航志朗は安寿を抱きしめたまま動かない。安寿は仕方なくそのまま右手を伸ばして、なんとかガスコンロの炎を消した。

 「……だめだ」

 航志朗が安寿の肩に顔をうずめながら苦しそうに言った。

 「え?」

 「俺が起きる前にベッドから出て行くな」

 (そんなこと言われても……)

 心の底から安寿は困惑した。

 ひとまず安堵した航志朗は自分自身の行動に驚いていた。顔を紅潮させて航志朗は思った。

 (ずっと俺は女性と二人でベッドで迎える朝を嫌悪していた。さっさと一人で起きてシャワーを浴びに行った俺を、彼女たちは泣いてののしった。それなのに、今は俺のほうが泣いて安寿をののしりそうだ)

 かすれた声で航志朗は尋ねた。

 「何をつくっているんだ、安寿?」

 「お粥です。たまにはお腹を休めたほうがいいかなって思って」

 「そうだな。……ありがとう」

 だんだんいつもの航志朗に戻って来ていることに安寿は安心した。落ち着いてきた航志朗は安寿が制服を着ていることに気がついて、強烈な罪悪感を感じた。

 (そうだ。彼女はまだ高校生なんだ……)

 航志朗は顔を上げて照れながら言った。

 「じゃあ、さっそくいただこうかな」

 「はい。では、仕上げをしますね」

 しかし、航志朗は安寿を離さない。航志朗に後ろから抱きしめられたまま、安寿は苦心してなんとか鍋に大根おろしと刻んだ大根の葉と溶き卵を入れてからガスを点火した。そして、ほどよく煮えたところで安寿はガスを止めて、二人分のボウルにお粥をよそった。

 だんだん安寿は航志朗の強引な態度に腹が立ってきた。

 (どうして彼女がいるのに、私にこんなことをするの? 私、からかわれているのかな)

 航志朗が安寿の耳元で甘えたようにささやいた。

 「安寿、お粥って自分で食べる気がしないな。君が食べさせてくれないか?」

 とうとう頭にきた安寿は声を荒げて叫んだ。

 「もうっ、自分で食べてください! 元気なんだから!」

 安寿は航志朗の腕を振りきって、湯気の立つお粥をダイニングテーブルに運んだ。顔を赤らめてうなだれた航志朗は安寿の後ろについて行った。

 黙り込んだままのふたりがお粥を食べ終わると、航志朗が立ち上がって、自分のためのコーヒーと安寿のための紅茶を淹れた。安寿は航志朗に会釈して礼を言った。

 マグカップの紅茶を半分飲んだところで、「あの、私、お昼すぎには地下鉄で家に帰ります」と安寿が躊躇なく言った。うつむいてコーヒーをすすっていた航志朗はあきらかに不愉快な表情をして言った。

 「だめだ。俺が車で送って行く」

 安寿はため息をついた。

 (今日は朝からご機嫌ななめ。最後の一日なのに……)

 安寿はこれからどのように航志朗と接したらいいのかとよくよく考えたが、結局のところ途方に暮れた。

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