今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
まだ午前八時だった。窓の外を見ると今日も清々しく晴れ渡っている。見事な雲が空に浮かんでいるのを見つけた安寿は、さっそくリュックサックの中からスケッチブックとペンケースを取り出すと、窓際の床に座って連休の課題の二枚目のスケッチに取りかかった。
頬杖をついて航志朗は陽だまりの中にいる安寿の後ろ姿を見ていた。ふと航志朗も窓の外の空を見上げて思った。
(明日にはイギリスへ行くのか。信じられないな、彼女と遠く離れるなんて。今、目の前の手の届くところにいるのに)
航志朗は立ち上がって安寿の左隣に座った。ふたりは午前中の柔らかい陽だまりの中にいる。航志朗は夢中になって鉛筆を走らせている安寿をしばらく見つめてから、安寿が描いている雲を見上げて表情をゆるませた。そして、航志朗は安寿の左肩に寄りかかってうとうとし始めた。安寿は描く手を止めて、目を閉じた航志朗の顔を見つめた。
(何か掛けてあげなくちゃ……)と安寿は思ったが、ここはぽかぽかと温かいから大丈夫だろう。安寿は航志朗に寄りかかられながら、また描き始めた。次第に航志朗は安寿の肩からずり落ちていき、終いには安寿の膝枕で眠ってしまった。安寿はそんな航志朗の姿を見て、軽くため息をついた。でも、安寿は嫌な気持ちはしなかった。むしろ子守りをしながら絵を描く母親のような気分になっていた。
窓の外の雲は刻一刻と姿形をとめどなく変えていく。安寿の鉛筆の先はその一刻を捕らえるかのように小刻みに動く。さらさらと清らかな小川のせせらぎのような音をたてながら。
「航志朗さん、航志朗さん。すいませんが、起きてください」と言う声に航志朗は目を開けた。航志朗の目の上には安寿の顔があって自分を見下ろしている。
(ん? 今、俺は、どこにいるんだ。……あっ!)
安寿に膝枕をしてもらっているという幸福極まりない自分の状況に気づいた航志朗は、わざと寝ぼけたふりをして安寿の腰に腕を回そうとした。だが、安寿に振り落とされて床に落ちた。残念な鈍い音が航志朗の耳の中に響いた。
「航志朗さん、トイレに行かせてください。これから昼食の準備をします」と言って、安寿は行ってしまった。床に転がった航志朗はそばに置いてある安寿のスケッチブックをのぞいた。そこにはダイナミックなグラデーションで、豪快な雲がとぐろを巻いたように描かれてあった。航志朗は思わずくすっと笑った。
(また凄まじい絵を描いたな。これは今日ののどかな五月晴れの雲じゃないだろ。真夏の大嵐の前触れみたいな雲だな)
昼食に安寿は肉じゃがをつくった。冷蔵庫の中の食材を無駄にしてはもったいないからきっかり使い切ろうと、安寿はこれまでの料理経験に基づいた知恵を持ち得る限りしぼった。残りの米も全部炊いて塩むすびにした。それから、航志朗の今晩の夕食用におでんも仕込んでおいた。航志朗はそれを知ると、心の底から感激した。
(俺のためにそこまでしてくれたのか! もしかして、とうとう俺のことを好きになったとか……)
航志朗は肉じゃがを頬張りながらにんまりと笑った。
(ご機嫌、やっと直ったかな?)
安寿は少しほっとした。
食後に航志朗は安寿の目の前にあるものを置いた。
「君に渡しておく。スマートフォンとこのマンションの合鍵だ」
「あの、困ります! 私、受け取れないです」
あわてて両手を振って安寿は断ったが、航志朗は安寿の手を取って握らせた。
「このスマートフォンは、もともと俺がスペアで持っていたものだ。結局、必要なかった。俺のお下がりだと思って遠慮なく使うといい。中には俺の連絡先が登録してある。何かあったら、いつでもすぐ俺に連絡しろ。時差は考えなくていい。それから、このマンションも自由に使って構わない。あの家で息が詰まったら、ここに来るといい。安寿、いいな?」
(「いいな」って言われても……)
安寿は戸惑って下を向いた。
そして、航志朗は顔を曇らせて言いづらそうに安寿に告げた。
「それから、君は驚くだろうけれど、あの家に住む前に知っておいたほうがいいと思うから、あらかじめ話しておく」
安寿の胸の鼓動が早まった。
(いったいどういうことなの?)
「俺の両親のことだ。たぶん君はあのひとたちを理想的な夫婦だと良く思ってくれていると思うけど、あのひとたちは仮面夫婦だ。俺が子どもの頃からずっと。母はあの家に住んでいない。銀座の画廊の上の住まいに一人で住んでいる。俺は、本当のところ、伊藤夫妻に育てられたんだ。母は……」
この時、航志朗はこの続きを安寿にどうしても言うことができなかった。
「あの女には、昔からたくさんの愛人がいる」と。
安寿はがく然として頭がくらくらした。安寿には航志朗の話が本当のことだとはまったく思えなかった。
(でも、なんて哀しい瞳をしているの)
航志朗の影を落とした琥珀色の瞳を見た安寿は胸がしめつけられた。そして、安寿は席を立って航志朗のそばに来ると、深々とお辞儀をして言った。
「あの、航志朗さん、いろいろありがとうございます。これからしばらくの間、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
(……しばらくの間って)
航志朗の胸が重苦しい音を刻んだ。とうとう航志朗は感情の歯止めが効かなくなって、椅子に座ったまま目の前の安寿の腰に腕を回して、その胸に顔をうずめた。そして、苦しそうにつぶやいた。
「安寿、しばらくこのままでいてくれないか……」
安寿は何も答えずに航志朗の頭をそっと自分の胸に抱いた。安寿は自分自身に驚いていた。今、この胸の奥からとめどなくあふれ出てくる熱を帯びた想いは、いったいなんなんだろうと思った。
(彼も子どもの頃からずっとつらい想いをしてきたひとなんだ……)
安寿は航志朗のまっすぐな黒髪を優しくなでた。航志朗は一瞬驚いたが、目を閉じてその心地よい感触に酔いしれた。
しばらくしてから、静かに安寿が言った。
「そろそろ、私、家に帰ります」
「……わかった。送るよ」
航志朗が虚ろなまなざしで答えた。
頬杖をついて航志朗は陽だまりの中にいる安寿の後ろ姿を見ていた。ふと航志朗も窓の外の空を見上げて思った。
(明日にはイギリスへ行くのか。信じられないな、彼女と遠く離れるなんて。今、目の前の手の届くところにいるのに)
航志朗は立ち上がって安寿の左隣に座った。ふたりは午前中の柔らかい陽だまりの中にいる。航志朗は夢中になって鉛筆を走らせている安寿をしばらく見つめてから、安寿が描いている雲を見上げて表情をゆるませた。そして、航志朗は安寿の左肩に寄りかかってうとうとし始めた。安寿は描く手を止めて、目を閉じた航志朗の顔を見つめた。
(何か掛けてあげなくちゃ……)と安寿は思ったが、ここはぽかぽかと温かいから大丈夫だろう。安寿は航志朗に寄りかかられながら、また描き始めた。次第に航志朗は安寿の肩からずり落ちていき、終いには安寿の膝枕で眠ってしまった。安寿はそんな航志朗の姿を見て、軽くため息をついた。でも、安寿は嫌な気持ちはしなかった。むしろ子守りをしながら絵を描く母親のような気分になっていた。
窓の外の雲は刻一刻と姿形をとめどなく変えていく。安寿の鉛筆の先はその一刻を捕らえるかのように小刻みに動く。さらさらと清らかな小川のせせらぎのような音をたてながら。
「航志朗さん、航志朗さん。すいませんが、起きてください」と言う声に航志朗は目を開けた。航志朗の目の上には安寿の顔があって自分を見下ろしている。
(ん? 今、俺は、どこにいるんだ。……あっ!)
安寿に膝枕をしてもらっているという幸福極まりない自分の状況に気づいた航志朗は、わざと寝ぼけたふりをして安寿の腰に腕を回そうとした。だが、安寿に振り落とされて床に落ちた。残念な鈍い音が航志朗の耳の中に響いた。
「航志朗さん、トイレに行かせてください。これから昼食の準備をします」と言って、安寿は行ってしまった。床に転がった航志朗はそばに置いてある安寿のスケッチブックをのぞいた。そこにはダイナミックなグラデーションで、豪快な雲がとぐろを巻いたように描かれてあった。航志朗は思わずくすっと笑った。
(また凄まじい絵を描いたな。これは今日ののどかな五月晴れの雲じゃないだろ。真夏の大嵐の前触れみたいな雲だな)
昼食に安寿は肉じゃがをつくった。冷蔵庫の中の食材を無駄にしてはもったいないからきっかり使い切ろうと、安寿はこれまでの料理経験に基づいた知恵を持ち得る限りしぼった。残りの米も全部炊いて塩むすびにした。それから、航志朗の今晩の夕食用におでんも仕込んでおいた。航志朗はそれを知ると、心の底から感激した。
(俺のためにそこまでしてくれたのか! もしかして、とうとう俺のことを好きになったとか……)
航志朗は肉じゃがを頬張りながらにんまりと笑った。
(ご機嫌、やっと直ったかな?)
安寿は少しほっとした。
食後に航志朗は安寿の目の前にあるものを置いた。
「君に渡しておく。スマートフォンとこのマンションの合鍵だ」
「あの、困ります! 私、受け取れないです」
あわてて両手を振って安寿は断ったが、航志朗は安寿の手を取って握らせた。
「このスマートフォンは、もともと俺がスペアで持っていたものだ。結局、必要なかった。俺のお下がりだと思って遠慮なく使うといい。中には俺の連絡先が登録してある。何かあったら、いつでもすぐ俺に連絡しろ。時差は考えなくていい。それから、このマンションも自由に使って構わない。あの家で息が詰まったら、ここに来るといい。安寿、いいな?」
(「いいな」って言われても……)
安寿は戸惑って下を向いた。
そして、航志朗は顔を曇らせて言いづらそうに安寿に告げた。
「それから、君は驚くだろうけれど、あの家に住む前に知っておいたほうがいいと思うから、あらかじめ話しておく」
安寿の胸の鼓動が早まった。
(いったいどういうことなの?)
「俺の両親のことだ。たぶん君はあのひとたちを理想的な夫婦だと良く思ってくれていると思うけど、あのひとたちは仮面夫婦だ。俺が子どもの頃からずっと。母はあの家に住んでいない。銀座の画廊の上の住まいに一人で住んでいる。俺は、本当のところ、伊藤夫妻に育てられたんだ。母は……」
この時、航志朗はこの続きを安寿にどうしても言うことができなかった。
「あの女には、昔からたくさんの愛人がいる」と。
安寿はがく然として頭がくらくらした。安寿には航志朗の話が本当のことだとはまったく思えなかった。
(でも、なんて哀しい瞳をしているの)
航志朗の影を落とした琥珀色の瞳を見た安寿は胸がしめつけられた。そして、安寿は席を立って航志朗のそばに来ると、深々とお辞儀をして言った。
「あの、航志朗さん、いろいろありがとうございます。これからしばらくの間、お世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
(……しばらくの間って)
航志朗の胸が重苦しい音を刻んだ。とうとう航志朗は感情の歯止めが効かなくなって、椅子に座ったまま目の前の安寿の腰に腕を回して、その胸に顔をうずめた。そして、苦しそうにつぶやいた。
「安寿、しばらくこのままでいてくれないか……」
安寿は何も答えずに航志朗の頭をそっと自分の胸に抱いた。安寿は自分自身に驚いていた。今、この胸の奥からとめどなくあふれ出てくる熱を帯びた想いは、いったいなんなんだろうと思った。
(彼も子どもの頃からずっとつらい想いをしてきたひとなんだ……)
安寿は航志朗のまっすぐな黒髪を優しくなでた。航志朗は一瞬驚いたが、目を閉じてその心地よい感触に酔いしれた。
しばらくしてから、静かに安寿が言った。
「そろそろ、私、家に帰ります」
「……わかった。送るよ」
航志朗が虚ろなまなざしで答えた。