今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふたりを乗せた車は安寿が住む団地に到着した。安寿と航志朗は車の中でひとことも話さなかった。

 「航志朗さん、ありがとうございました。では、失礼いたします」

 お辞儀をして安寿は車を降りて行った。そして、安寿は一度も振り返らずに行ってしまった。少しだけ左足を引きずりながら。

 一人になった航志朗は、目の前から去って行く安寿の後ろ姿を見ながらつぶやいた。

 「さよならのキスもしないで行ってしまうんだな」

 深いため息をついた航志朗は弱々しくアクセルを踏んだ。

 こうして、安寿と航志朗の七日間の新婚生活は終わった。

 思いがけず、四日ぶりに帰宅した安寿はまっすぐに自分の部屋に行って、航志朗から贈られたアレンジメントを確かめた。やはり、花はしおれて枯れていた。

 だが、よく見ると、白いバラが一本だけまだ咲いていた。安寿は顔をほころばせた。すぐに安寿はキッチンに行って、グラスに新鮮な水を張って水切りをしてから、その白いバラを活けた。

 さっき航志朗と車の中にいた時、きっと自分は家に帰ったら泣いてしまうのだろうと思っていた。だが、安寿は泣かなかった。安寿はバラを生けたグラスを持って自室に戻ると、黙々と自分の持ち物の整理を始めた。

 午後六時すぎに、恵が北海道から帰宅した。恵は帰って来るなり、安寿が自分の荷物をまとめていることを見て、とても驚いた。恵は数日ぶりの少し大人びた安寿の姿を見て悟った。

 (とうとう、私たちが離れる時が来たんだ。いつかこんな日が来るとは思っていたけれど、こんな形で、こんなに早く来るなんて……)

 月曜日の朝、あと二週間で出版社を退職する恵は、始発に乗るために朝早く家を出て行った。安寿は午前六時前に起きて、久しぶりに弁当をつくった。とはいっても、レタスとミニトマトを洗って、卵焼きをつくっただけだ。あとは冷凍食品を使った。いつもは午前七時二十分に家を出るのだが、余裕を持って七時前には家を出るつもりだ。安寿は一人で朝食を食べて身支度をしながら、今日の天気を確認しようとテレビをつけた。

 朝のニュースではイギリスの話題が取りあげられていた。テレビ画面にロイヤルファミリーの世にも幸福そうな夫婦が映った。

 それを見てすぐに、(イギリス? 彼はもう着いたのかな)と安寿は思った。安寿はとても不思議だった。おとといまで自分のすぐそばにいた航志朗が、もうあんな遠いところにいる。

 (そろそろ、出かける時間だ)

 玄関マットに座って安寿がスニーカーの靴紐を注意深くしばっていると、マウンテンリュックサックの中のスマートフォンが鳴り出した。

 (……恵ちゃんからかな?)

 スマートフォンをリュックサックの内ポケットから取り出して画面を見ると、そこには「岸航志朗」と表示されていて、安寿は胸がどきっとした。

 (もしかして、イギリスから?)

 まだ操作に慣れないスマートフォンをタップして、安寿は胸を弾ませて通話に出た。

 「もしもし、……航志朗さん?」

 『安寿、おはよう!』

 いきなり大容量の明るく弾んだ声が耳の中に響いた。目を見開いた安寿は思わずスマートフォンを落としそうになった。

 「おはようございます。あの、『おはよう』でいいんですか?」

 安寿は日本とイギリスの時差が何時間あるのか知らない。

 『もちろん。今朝もいい天気だ』

 「イギリスも晴れているんですね」

 『いや、俺はイギリスにいない』

 (あれ? 予定が変わったのかな)

 安寿は不思議に思った。

 「そうですか。では、シンガポールにいらっしゃるんですか?」

 『いや、シンガポールにもいない』

 「えっ、今、どこにいらっしゃるんですか?」

 くすくす可笑しそうに笑いながら航志朗が答えた。

 『……君の家の玄関の前だ』

 「ええっ!」

 あわてて安寿は目の前の玄関ドアを開けた。そこには、心の底から愉しそうに笑った航志朗がスマートフォンを耳に当てて立っていた。

 「満席で航空券が取れなかったんだ。今日の夕方のフライトでイギリスに行く。その前に君を高校まで送る」

 「えええっ!」

 驚いた安寿は後ろにのけぞって倒れそうになった。航志朗はとっさに手を伸ばして安寿を受け止めた。

 「危ないなあ。気をつけろよ、安寿」

 近距離で航志朗に顔をのぞき込まれて安寿は真っ赤になった。

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