今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第9章 彼と一緒なら私は強くなれるかもしれない
第1節
その年の六月に入った。梅雨入りしてから、髪の毛にまとわりつくような湿気がこもった曇り空が続く毎日だ。安寿は自分の部屋となった子どもの頃の航志朗の部屋にいた。使い込まれたチークのデスクの上に高校から配布された一枚のプリントを目の前に置いて、安寿は頬杖をついて考え込んでいた。
安寿が岸家の屋敷に住み始めてから、すでに三週間が経過している。
三週間前の金曜日に、安寿は叔母の恵と渡辺の婚姻届の証人欄に心を込めてサインをした。その夜、翌日北海道に出発する恵と一緒にひとつの毛布にくるまった。一晩中、安寿と恵はたくさんの思い出話をした。涙をこらえながら恵は安寿に礼を言った。
「安寿、本当にありがとう。私、もう少しで、とても大切なものを捨ててしまうところだった」
「『とても大切なもの』って?」
「優ちゃんからの手紙よ。私たちが中学生だった時からの」
「優仁さんもでしょ、……恵ちゃん?」
恵は愛おしそうに安寿に頬を寄せて微笑みながら言った。
「本当にそうね。それに航志朗さんにも心から感謝しているわ」
安寿と恵は毛布の中で両腕を回してきつく抱き合った。母の匂いも温もりも覚えていない安寿は、ずっと子どもの頃から安心させてくれる叔母の匂いと温もりに満たされた。
(今まで私は恵ちゃんに守られてきた。本当にありがとう、恵ちゃん。優仁さんとたくさんたくさん幸せになってね)
何度も安寿は心のなかでそう繰り返しつぶやいた。口に出してしまうと泣き出してしまいそうだから。
「そろそろ、私、自分のベッドに戻るね」と言って、安寿は自分の部屋に戻って行った。
その翌日、安寿と恵はそれぞれの新しい生活に向けて、八年間に渡ってふたり暮らしをしてきた団地の一室から出て行った。
安寿と恵が暮らした家の荷物は二手に分かれたが、安寿の荷物は少なかった。そのほとんどが、安寿の身のまわりの物と画材と今までの作品だ。引っ越しする日がやって来る二週間で、安寿はたくさんの持ち物を整理した。安寿の部屋にあった小学生の頃から使っていたベッドやデスクは、引っ越し業者に処分してもらった。
安寿は二週間で仕上げた小さな油絵を、恵と渡辺へ結婚のお祝いに贈った。絵には航志朗から贈ってもらった一輪の白いバラが描かれていた。その白いバラは団地での最後の日々をずっと枯れずに安寿を見守ってくれた。
岸家の自室にあるデスクの上に置いたプリントを見て、安寿はため息をついた。そのプリントには「三者面談のお知らせ」と書いてある。担任教諭と生徒とその保護者の三人が、高校卒業後の進路について相談するのだ。
(私の保護者って……)
今までは叔母の恵に出席してもらっていた。でも、恵は遠く離れた北海道にいる。きっと新しい生活に忙しくしているのだろう。このためにわざわざ来てもらうわけにはいかない。そもそも安寿は叔母から独立したのだ。三週間前に別れてから、安寿は恵にあえて連絡をしていなかった。それに岸か華鶴にお願いするのも気が引けた。実は、はじめから安寿の脳裏には航志朗の顔が思い浮かんではいたが、(航志朗さんにお願いするなんて絶対にできない)と安寿はつくづく思った。
航志朗と別れてから一か月以上経つ。この間、航志朗からの連絡は一度もなかったし、安寿からも連絡はしていない。
(きっと、シンガポールで彼女と楽しく過ごしているんだろうな。すっかり私のことなんか忘れて)
安寿は微かな胸の痛みに気づかないふりをした。
(何かあっても、絶対に連絡なんかできるわけがないでしょ。彼女と一緒の時だったら、大迷惑だろうし)
結局、万策尽きた安寿は伊藤に相談した。伊藤は快く安寿の保護者役になることを承諾してくれた。
安寿が岸家の屋敷に住み始めてから、すでに三週間が経過している。
三週間前の金曜日に、安寿は叔母の恵と渡辺の婚姻届の証人欄に心を込めてサインをした。その夜、翌日北海道に出発する恵と一緒にひとつの毛布にくるまった。一晩中、安寿と恵はたくさんの思い出話をした。涙をこらえながら恵は安寿に礼を言った。
「安寿、本当にありがとう。私、もう少しで、とても大切なものを捨ててしまうところだった」
「『とても大切なもの』って?」
「優ちゃんからの手紙よ。私たちが中学生だった時からの」
「優仁さんもでしょ、……恵ちゃん?」
恵は愛おしそうに安寿に頬を寄せて微笑みながら言った。
「本当にそうね。それに航志朗さんにも心から感謝しているわ」
安寿と恵は毛布の中で両腕を回してきつく抱き合った。母の匂いも温もりも覚えていない安寿は、ずっと子どもの頃から安心させてくれる叔母の匂いと温もりに満たされた。
(今まで私は恵ちゃんに守られてきた。本当にありがとう、恵ちゃん。優仁さんとたくさんたくさん幸せになってね)
何度も安寿は心のなかでそう繰り返しつぶやいた。口に出してしまうと泣き出してしまいそうだから。
「そろそろ、私、自分のベッドに戻るね」と言って、安寿は自分の部屋に戻って行った。
その翌日、安寿と恵はそれぞれの新しい生活に向けて、八年間に渡ってふたり暮らしをしてきた団地の一室から出て行った。
安寿と恵が暮らした家の荷物は二手に分かれたが、安寿の荷物は少なかった。そのほとんどが、安寿の身のまわりの物と画材と今までの作品だ。引っ越しする日がやって来る二週間で、安寿はたくさんの持ち物を整理した。安寿の部屋にあった小学生の頃から使っていたベッドやデスクは、引っ越し業者に処分してもらった。
安寿は二週間で仕上げた小さな油絵を、恵と渡辺へ結婚のお祝いに贈った。絵には航志朗から贈ってもらった一輪の白いバラが描かれていた。その白いバラは団地での最後の日々をずっと枯れずに安寿を見守ってくれた。
岸家の自室にあるデスクの上に置いたプリントを見て、安寿はため息をついた。そのプリントには「三者面談のお知らせ」と書いてある。担任教諭と生徒とその保護者の三人が、高校卒業後の進路について相談するのだ。
(私の保護者って……)
今までは叔母の恵に出席してもらっていた。でも、恵は遠く離れた北海道にいる。きっと新しい生活に忙しくしているのだろう。このためにわざわざ来てもらうわけにはいかない。そもそも安寿は叔母から独立したのだ。三週間前に別れてから、安寿は恵にあえて連絡をしていなかった。それに岸か華鶴にお願いするのも気が引けた。実は、はじめから安寿の脳裏には航志朗の顔が思い浮かんではいたが、(航志朗さんにお願いするなんて絶対にできない)と安寿はつくづく思った。
航志朗と別れてから一か月以上経つ。この間、航志朗からの連絡は一度もなかったし、安寿からも連絡はしていない。
(きっと、シンガポールで彼女と楽しく過ごしているんだろうな。すっかり私のことなんか忘れて)
安寿は微かな胸の痛みに気づかないふりをした。
(何かあっても、絶対に連絡なんかできるわけがないでしょ。彼女と一緒の時だったら、大迷惑だろうし)
結局、万策尽きた安寿は伊藤に相談した。伊藤は快く安寿の保護者役になることを承諾してくれた。