今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日の岸家の昼食は咲が腕をふるって、手作りピザを焼いてくれた。

 正午すぎに安寿と岸が連れ立って食事室に向かうと、とても香ばしいチーズの焼ける香りが漂ってきた。ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。

 昼食の時間に華鶴は姿を見せなかった。顔をほころばせた咲が焼きたての熱々のピザとカットレモン入りの炭酸水をダイニングテーブルに運んで来た。

 岸とワンピースの上にエプロンを着た安寿がおいしそうにピザを口に運ぶ様子を見て、咲がこころなしか残念そうな表情で言った。

 「航志朗坊っちゃんもご一緒にいらっしゃったらよかったですね。このピザは、航志朗坊っちゃんの子どもの頃の大好物だったから」

 一瞬、安寿がピザを口に運ぶ手つきが止まった。岸は無言で安寿の手元を見つめた。

 すっかりピザを平らげてから安寿が咲に言った。

 「手作りピザって、私、初めていただきました。とてもおいしかったです。咲さん、よろしかったら、このピザのレシピを私に教えてくださいませんか」

 「かしこまりました。安寿さまにおいしいとおっしゃっていただけて嬉しいです。今度、航志朗坊っちゃんがご帰国されたら、一緒につくって差しあげましょうね」

 「……はい」

 安寿は少し困ったように返事をした。その安寿の顔を岸は見て見ぬふりをした。

 鼻歌を歌いながら後片づけをして台所に戻って来た咲は心から嬉しく思った。

 (安寿さまったら、航志朗坊っちゃんがピザがお好きと聞いて、つくり方を教えてくださいなんて、なんて可愛らしいのかしら!)

 その日の午後も安寿は真紅の肘掛け椅子に座っていた。その椅子はゆったりとした幅で座面が低く造られていて、座り心地がとてもよい。美しい彫りがほどこされた木製のアームを安寿はそっとなでた。

 岸が安寿に微笑みかけながら言った。

 「安寿さん、その椅子をお気に召されましたか。それは英国製のナーシングチェアです」
 
 安寿にとって初めて聞く単語だった。

 「岸先生、『ナーシングチェア』ってなんですか?」

 「赤ちゃんに授乳するお母さんのための椅子です。実は、私の母が使っていました」

 安寿は、今、自分が腰掛けている椅子をまじまじと見つめた。

 (恵真さまが使っていらっしゃったんだ。赤ちゃんの岸先生を抱っこしながら)

 安寿は「華鶴さんも赤ちゃんの航志朗さんを抱っこして使っていらしたんですか」と尋ねようとしたが、あわててその言葉を喉の奥に飲み込んだ。ただ「そうなんですか」とだけ言って、気まずそうに安寿はうつむいた。

 (岸先生のお母さまで、航志朗さんのおばあさまの恵真さまって、どんなお方だったんだろう。お会いしたかったな……)とつい安寿は思ってしまったが、今となっては母や祖父母と同じく会うことが叶わないと痛感して涙が出そうになってしまった。岸はそんな安寿を気遣って言った。

 「安寿さん、少し休憩しましょうか」

 静かに岸はアトリエを出て行った。一人になった安寿は肘掛け椅子の背もたれに顔をうずめて泣くのを我慢した。そして、安寿は胸の内で本心から思った。

 (私が、今、本当に会いたいのは……。今度、いつ、彼に会えるのかな)

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