今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
六月の終わりの金曜日に安寿の三者面談の日がやって来た。通常、安寿は岸家の屋敷から最寄り駅まで航志朗が中学生の時に使っていた自転車で行き、電車に乗って行く。高校の最寄り駅までは二十分ほどだ。住まいが高校に近くなって、ずいぶんと通学時間が短くなった。天候が悪い日は伊藤に駅まで車で送ってもらっている。
今日も雨がしとしと降っている。まだ梅雨は空けない。この数週間、ほぼ毎日伊藤に駅まで送ってもらっていて、安寿は申しわけなく思っていた。伊藤はやっとねんざが治った安寿が雨の中で自転車に乗って転んでしまっては大変だからと、遠慮する安寿を説得した。駅に到着した安寿は、運転席に座った伊藤に頭を下げて礼を言った。
「伊藤さん、ありがとうございます。それから、今日の午後、大変ご迷惑をおかけして申しわけありませんが、よろしくお願いいたします」
「安寿さま、そんなにもお気になさらないでください。私は楽しみにしているんですよ。保護者として学校にうかがうのは、なにしろ初めての経験ですので」
子どもがいない伊藤は嬉しそうに微笑んだ。実は伊藤は緊張のあまり、昨晩よく眠れなかった。
「では、安寿さま。本日の午後二時五十分に、高校の昇降口に参ります」と伊藤が生真面目に言った。
その頃、山口雄一郎は、清華美術大学付属高校の職員室の自身のデスクで三者面談の日程表を見ていた。
顔をしかめて山口はつぶやいた。
「今日は、白戸安寿の面談の日か」
山口は安寿の担任教諭だ。
先月の半ば、山口は突然校長室に呼ばれた。そして、なぜか校長の口から白戸安寿の家庭の事情を聞かされた。山口はその内容に心底から驚愕した。安寿が岸宗嗣の長男と婚約して、岸家に住むことになったというのだ。
(あの彼女が婚約って……。しかも、あの洋画家の岸宗嗣とギャラリストの妻との間の一人息子と)
それから、山口はゴールデンウィーク明けの朝の出来事をありありと脳裏に思い浮かべた。山口は高校が所在する町内で一人暮らしをしている。いつものように高校の裏門に自転車に乗って向かっていると、神社の脇に一台の車が停まっていることに気づいた。皮肉を込めて山口は思った。
(おっ、英国製の高級車じゃないか。一介の高校教師が一生汗水たらして働いても買えないやつだ)
自転車で通り過ぎながら、山口は車の中を一瞬のぞき見て目を大きく見開いた。朝から若い男女が車の中で抱き合ってキスをしている場面を目撃してしまったからだ。女の方は山口が見慣れた制服を着ていた。
(おいおい、うちの女生徒じゃないか! 連休明けに男に車で送ってもらって、登校前に何やってんだよ。いったいどこのどいつだ?)
山口は数名の素行不良の女生徒の顔を思い浮かべた。教師としての責任を感じて、山口は裏門に隠れてその女生徒が車から降りてくるのを待った。だが、実はそれは建前で、ほとんど芸能人のスキャンダルをのぞき見るように興味本位であったことは否めない。
しばらくして、当の女生徒が車から降りて来て裏門の前を通った。その女生徒を目視した山口は我が目を疑い、あぜんとして開いた口が塞がらなかった。山口にとって、まったくの予想外の人物だったからだ。
「しっ、しっ、白戸安寿!? 俺のクラスの……」
安寿は真っ赤な顔をして足を少し引きずりながら、山口に気づかずに正門に向かって歩いて行った。
目の前のファイルされた安寿の進路希望調査書を改めて見て、山口は思った。
(やれやれ、いったいどういうことなんだ? まったくわけがわからない)
雨に降られてところどころに大きな水たまりができた窓の外の校庭を眺めながら、山口は大きくため息をついた。
今日も雨がしとしと降っている。まだ梅雨は空けない。この数週間、ほぼ毎日伊藤に駅まで送ってもらっていて、安寿は申しわけなく思っていた。伊藤はやっとねんざが治った安寿が雨の中で自転車に乗って転んでしまっては大変だからと、遠慮する安寿を説得した。駅に到着した安寿は、運転席に座った伊藤に頭を下げて礼を言った。
「伊藤さん、ありがとうございます。それから、今日の午後、大変ご迷惑をおかけして申しわけありませんが、よろしくお願いいたします」
「安寿さま、そんなにもお気になさらないでください。私は楽しみにしているんですよ。保護者として学校にうかがうのは、なにしろ初めての経験ですので」
子どもがいない伊藤は嬉しそうに微笑んだ。実は伊藤は緊張のあまり、昨晩よく眠れなかった。
「では、安寿さま。本日の午後二時五十分に、高校の昇降口に参ります」と伊藤が生真面目に言った。
その頃、山口雄一郎は、清華美術大学付属高校の職員室の自身のデスクで三者面談の日程表を見ていた。
顔をしかめて山口はつぶやいた。
「今日は、白戸安寿の面談の日か」
山口は安寿の担任教諭だ。
先月の半ば、山口は突然校長室に呼ばれた。そして、なぜか校長の口から白戸安寿の家庭の事情を聞かされた。山口はその内容に心底から驚愕した。安寿が岸宗嗣の長男と婚約して、岸家に住むことになったというのだ。
(あの彼女が婚約って……。しかも、あの洋画家の岸宗嗣とギャラリストの妻との間の一人息子と)
それから、山口はゴールデンウィーク明けの朝の出来事をありありと脳裏に思い浮かべた。山口は高校が所在する町内で一人暮らしをしている。いつものように高校の裏門に自転車に乗って向かっていると、神社の脇に一台の車が停まっていることに気づいた。皮肉を込めて山口は思った。
(おっ、英国製の高級車じゃないか。一介の高校教師が一生汗水たらして働いても買えないやつだ)
自転車で通り過ぎながら、山口は車の中を一瞬のぞき見て目を大きく見開いた。朝から若い男女が車の中で抱き合ってキスをしている場面を目撃してしまったからだ。女の方は山口が見慣れた制服を着ていた。
(おいおい、うちの女生徒じゃないか! 連休明けに男に車で送ってもらって、登校前に何やってんだよ。いったいどこのどいつだ?)
山口は数名の素行不良の女生徒の顔を思い浮かべた。教師としての責任を感じて、山口は裏門に隠れてその女生徒が車から降りてくるのを待った。だが、実はそれは建前で、ほとんど芸能人のスキャンダルをのぞき見るように興味本位であったことは否めない。
しばらくして、当の女生徒が車から降りて来て裏門の前を通った。その女生徒を目視した山口は我が目を疑い、あぜんとして開いた口が塞がらなかった。山口にとって、まったくの予想外の人物だったからだ。
「しっ、しっ、白戸安寿!? 俺のクラスの……」
安寿は真っ赤な顔をして足を少し引きずりながら、山口に気づかずに正門に向かって歩いて行った。
目の前のファイルされた安寿の進路希望調査書を改めて見て、山口は思った。
(やれやれ、いったいどういうことなんだ? まったくわけがわからない)
雨に降られてところどころに大きな水たまりができた窓の外の校庭を眺めながら、山口は大きくため息をついた。