今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
その週の月曜日の朝、これからオフィスに出社しようとしていた航志朗のスマートフォンが鳴った。華鶴からだった。航志朗は顔をしかめながら画面をタップした。
「……はい」
『航志朗さん、今度の週末にオアフに行ってくださらない?』
「ハワイ、ですか」
『前々から私が赴く予定があったのだけれど、急な他の仕事が入ってしまったの。あなたにはポートロックにある私設美術館に行って、宗嗣さんの風景画を納品していただきたいの。それから、安寿さんの人物画も。彼女をモデルにした初めての油彩画よ。宗嗣さんにとっては習作だけれど、ぜひとも売ってほしいって館長に懇願されたの』
突然、航志朗の全身に緊張が走った。
(安寿の油彩画だって? とうとう始まったのか)
『二枚の作品は屋敷に置いておくわ。館長のマリコによろしく』とだけ華鶴は言って、いつも通り一方的に電話は切れた。
急いで自宅を出た航志朗は、背の高い街路樹が規則的に植えられた大通りをひたすら走って、MRTの駅に向かった。朝から走って先を急ぐような者は、南国のこの国にはいない。航志朗は不思議そうに自分を見る人びとに構わず走った。晴れた大空を見上げてまぶしい陽ざしに目を細めながら、航志朗は心のなかで叫んでいた。
(安寿、俺は君に会いに行く! 今すぐに!)
だが、結局のところ、ようやく航志朗が東京にたどり着いたのは、その四日後の金曜日の早朝だった。
約二か月ぶりの東京の空は小糠雨に煙っていた。イミグレーションを通過した航志朗は居ても立っても居られずに、そのまま羽田空港からタクシーで岸家に向かった。もしかしたら、登校する前の安寿と会えるかもしれない。航志朗の気は急いていた。だが、追突事故による大渋滞に巻き込まれて、航志朗が岸家に到着したのは午前八時を過ぎていた。咲がタクシーが到着したことに気づいてあわてて迎えに出て来た。咲によると、たった今、安寿は伊藤が運転する車に乗って登校したばかりだった。がっくりとうなだれた航志朗に咲は温かいまなざしで言った。
「航志朗坊っちゃん、ご朝食をまだ召しあがっていないんじゃないですか? これからご用意いたしますから、お屋敷にお入りくださいませ」
食事室で咲が手早く用意してくれた大根と豆腐とワカメの味噌汁を航志朗が啜っていると、安寿を駅まで送って来た伊藤が帰宅した。伊藤は航志朗をひと目見るなり、苦言を呈した。
「航志朗坊っちゃん。ご帰国される際は、前もってご一報してくださいと申しあげましたよね? まあ、華鶴奥さまから作品をお預かりしていましたので、そろそろいらっしゃる頃かとは思っておりましたが」
「安寿は?」
伊藤は平然とした様子で答えた。
「安寿さまは、ご登校されました」
航志朗は不機嫌な表情になって、また訊いた。
「それは知っています。この家に来て、彼女は元気にしていますか?」
意外な顔をした伊藤が控えめに尋ねた。
「航志朗坊っちゃん、安寿さまとご連絡を取っていないのですか?」
咲お手製のふりかけをたっぷりかけたご飯をほおばりながら航志朗が言った。
「取っていません」
顔を上げて改めて伊藤の姿を見た航志朗は違和感を覚えた。いつも季節感のある色柄の入ったネクタイを締めている伊藤が、今日は珍しくシンプルなネイビーのソリッドタイを身に着けている。今日の伊藤は岸家の執事ではなく、まるでお受験パパのような装いだ。
「伊藤さん、今日は何か特別な予定があるんですか?」
航志朗の洞察力にぎょっとした伊藤は、思わず白状してしまった。
「は、はい。本日は安寿さまの高校の三者面談がございます。今日の午後に、私は安寿さまの保護者として高校に参ります。実は、安寿さまに頼まれまして」
どことなく伊藤は嬉しそうだった。そんな伊藤を航志朗は無言で見つめた。
「……はい」
『航志朗さん、今度の週末にオアフに行ってくださらない?』
「ハワイ、ですか」
『前々から私が赴く予定があったのだけれど、急な他の仕事が入ってしまったの。あなたにはポートロックにある私設美術館に行って、宗嗣さんの風景画を納品していただきたいの。それから、安寿さんの人物画も。彼女をモデルにした初めての油彩画よ。宗嗣さんにとっては習作だけれど、ぜひとも売ってほしいって館長に懇願されたの』
突然、航志朗の全身に緊張が走った。
(安寿の油彩画だって? とうとう始まったのか)
『二枚の作品は屋敷に置いておくわ。館長のマリコによろしく』とだけ華鶴は言って、いつも通り一方的に電話は切れた。
急いで自宅を出た航志朗は、背の高い街路樹が規則的に植えられた大通りをひたすら走って、MRTの駅に向かった。朝から走って先を急ぐような者は、南国のこの国にはいない。航志朗は不思議そうに自分を見る人びとに構わず走った。晴れた大空を見上げてまぶしい陽ざしに目を細めながら、航志朗は心のなかで叫んでいた。
(安寿、俺は君に会いに行く! 今すぐに!)
だが、結局のところ、ようやく航志朗が東京にたどり着いたのは、その四日後の金曜日の早朝だった。
約二か月ぶりの東京の空は小糠雨に煙っていた。イミグレーションを通過した航志朗は居ても立っても居られずに、そのまま羽田空港からタクシーで岸家に向かった。もしかしたら、登校する前の安寿と会えるかもしれない。航志朗の気は急いていた。だが、追突事故による大渋滞に巻き込まれて、航志朗が岸家に到着したのは午前八時を過ぎていた。咲がタクシーが到着したことに気づいてあわてて迎えに出て来た。咲によると、たった今、安寿は伊藤が運転する車に乗って登校したばかりだった。がっくりとうなだれた航志朗に咲は温かいまなざしで言った。
「航志朗坊っちゃん、ご朝食をまだ召しあがっていないんじゃないですか? これからご用意いたしますから、お屋敷にお入りくださいませ」
食事室で咲が手早く用意してくれた大根と豆腐とワカメの味噌汁を航志朗が啜っていると、安寿を駅まで送って来た伊藤が帰宅した。伊藤は航志朗をひと目見るなり、苦言を呈した。
「航志朗坊っちゃん。ご帰国される際は、前もってご一報してくださいと申しあげましたよね? まあ、華鶴奥さまから作品をお預かりしていましたので、そろそろいらっしゃる頃かとは思っておりましたが」
「安寿は?」
伊藤は平然とした様子で答えた。
「安寿さまは、ご登校されました」
航志朗は不機嫌な表情になって、また訊いた。
「それは知っています。この家に来て、彼女は元気にしていますか?」
意外な顔をした伊藤が控えめに尋ねた。
「航志朗坊っちゃん、安寿さまとご連絡を取っていないのですか?」
咲お手製のふりかけをたっぷりかけたご飯をほおばりながら航志朗が言った。
「取っていません」
顔を上げて改めて伊藤の姿を見た航志朗は違和感を覚えた。いつも季節感のある色柄の入ったネクタイを締めている伊藤が、今日は珍しくシンプルなネイビーのソリッドタイを身に着けている。今日の伊藤は岸家の執事ではなく、まるでお受験パパのような装いだ。
「伊藤さん、今日は何か特別な予定があるんですか?」
航志朗の洞察力にぎょっとした伊藤は、思わず白状してしまった。
「は、はい。本日は安寿さまの高校の三者面談がございます。今日の午後に、私は安寿さまの保護者として高校に参ります。実は、安寿さまに頼まれまして」
どことなく伊藤は嬉しそうだった。そんな伊藤を航志朗は無言で見つめた。