今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
今週、清華美術大学付属高校の三年生は三者面談があるために五時間授業だった。莉子と大翔は面談を月曜日と水曜日にそれぞれ済ませていて、すでにふたりは下校した。大翔の両親は面談に出席するために、京都から上京して来ていた。蒼は安寿の前の順番だった。面談はクラスの教室であるので、安寿と蒼は今日面談がある生徒の控え室となった一階の多目的室で一緒に順番を待っていた。
腕を組んで椅子に腰掛けた蒼が面倒くさそうに足をぶらぶらさせながら安寿に言った。
「進路相談っていっても、俺たち内部進学できるんだから意味ないよな。時間の無駄だよ」
「うん。……そうだね」と安寿は言いづらそうに返事をした。
「俺のところは母親が来るんだけど、安寿のところは誰が来るの?」
蒼は気軽に聞いてしまってから、すぐに後悔した。
(安寿の家は、何か事情があったんだ)
だが、意外にも安寿は明るい調子で答えた。
「私のところは親戚のおじさんが来るの」
「そうか……」
すぐに蒼は思い当たった。
(この前、校門まで迎えに来ていたあいつか?)
蒼は、航志朗の大人の男らしい落ち着いたルックスと安寿へのなれなれしい態度を思い出して急に腹立たしくなった。
蒼の順番が来て、蒼は多目的室を出て行った。面談は二十分間だ。安寿は大切にしている腕時計を見た。それは恵から高校入学祝いにプレゼントしてもらったものだ。
時刻は午後二時四十分になった。伊藤は必ず約束の時間のちょうど五分前に到着する。安寿は伊藤と待ち合わせをした昇降口に向かった。
外は相変わらず小雨が霧のように降っている。少し肌寒い。安寿は身震いした。そろそろ時間だ。辺りを見回して安寿は伊藤の姿を探した。
(伊藤さんはいつも私を優しく気遣ってくださって、本当にありがたい。いくら感謝してもし足りないくらい)
心のなかで安寿は伊藤に改めて感謝した。
その時、午後二時五十分を過ぎたことに気づいて安寿は怪訝に思った。
(あれ? 伊藤さん、まだ来ない。道が混んでいるのかな)
安寿の面談の時間は、午後三時からだ。
午後二時五十五分になった。
(もうすぐ時間だけど、もしかして伊藤さんに何かあったのかな)
急に安寿は心配になってきた。
そこへ傘もささずに人影が走ってやって来たことに安寿は気づいた。その人影が安寿の名前を呼ぶ声と、安寿がその人影の名前を呼ぶ声が同時に重なった。
「安寿!」
「航志朗さん!」
「どうして?」と、突然、目の前に現れた航志朗に言いたかったが、安寿は声に出せなかった。今にも泣き出しそうな震える想いで、安寿は航志朗を見上げた。航志朗はそんな安寿を優しいまなざしで見つめ返した。久しぶりに見る航志朗の力強い琥珀色の瞳だ。
航志朗は下駄箱の前で持参した黒いスリッパに履き替えた。かがんだ航志朗の黒髪と肩が雨に濡れていた。安寿はあわてて制服のポケットからタオル地のハンカチを取り出して、航志朗の髪と肩を拭いた。
「ありがとう、安寿」
「はい」
安寿は赤くなって下を向いた。
航志朗がスマートフォンを見て言った。
「安寿、面談は三時からだろ? もう時間だぞ」
スマートフォンを持った航志朗の左手の薬指には、真新しい結婚指輪が輝いていた。
(航志朗さん、あの結婚指輪をしている!)
安寿はとても驚いたが、今はそれどころではない。
「航志朗さん、教室はこちらです」と言って、安寿は走り出した。その後を航志朗は追った。安寿は自分の鞄を胸に抱いて、階段を駆け上がって行く。航志朗の目には活発に走る安寿の後ろ姿が新鮮に映った。
二か月前、傷ついた安寿は確かに足を引きずって歩いていたのだ。今の安寿は、まるで自分から走って逃げ去って行くかのように、航志朗には見えた。その瞬間、航志朗は心の奥底から安寿を欲した。
(安寿、俺は絶対に君をつかまえてやる!)
腕を組んで椅子に腰掛けた蒼が面倒くさそうに足をぶらぶらさせながら安寿に言った。
「進路相談っていっても、俺たち内部進学できるんだから意味ないよな。時間の無駄だよ」
「うん。……そうだね」と安寿は言いづらそうに返事をした。
「俺のところは母親が来るんだけど、安寿のところは誰が来るの?」
蒼は気軽に聞いてしまってから、すぐに後悔した。
(安寿の家は、何か事情があったんだ)
だが、意外にも安寿は明るい調子で答えた。
「私のところは親戚のおじさんが来るの」
「そうか……」
すぐに蒼は思い当たった。
(この前、校門まで迎えに来ていたあいつか?)
蒼は、航志朗の大人の男らしい落ち着いたルックスと安寿へのなれなれしい態度を思い出して急に腹立たしくなった。
蒼の順番が来て、蒼は多目的室を出て行った。面談は二十分間だ。安寿は大切にしている腕時計を見た。それは恵から高校入学祝いにプレゼントしてもらったものだ。
時刻は午後二時四十分になった。伊藤は必ず約束の時間のちょうど五分前に到着する。安寿は伊藤と待ち合わせをした昇降口に向かった。
外は相変わらず小雨が霧のように降っている。少し肌寒い。安寿は身震いした。そろそろ時間だ。辺りを見回して安寿は伊藤の姿を探した。
(伊藤さんはいつも私を優しく気遣ってくださって、本当にありがたい。いくら感謝してもし足りないくらい)
心のなかで安寿は伊藤に改めて感謝した。
その時、午後二時五十分を過ぎたことに気づいて安寿は怪訝に思った。
(あれ? 伊藤さん、まだ来ない。道が混んでいるのかな)
安寿の面談の時間は、午後三時からだ。
午後二時五十五分になった。
(もうすぐ時間だけど、もしかして伊藤さんに何かあったのかな)
急に安寿は心配になってきた。
そこへ傘もささずに人影が走ってやって来たことに安寿は気づいた。その人影が安寿の名前を呼ぶ声と、安寿がその人影の名前を呼ぶ声が同時に重なった。
「安寿!」
「航志朗さん!」
「どうして?」と、突然、目の前に現れた航志朗に言いたかったが、安寿は声に出せなかった。今にも泣き出しそうな震える想いで、安寿は航志朗を見上げた。航志朗はそんな安寿を優しいまなざしで見つめ返した。久しぶりに見る航志朗の力強い琥珀色の瞳だ。
航志朗は下駄箱の前で持参した黒いスリッパに履き替えた。かがんだ航志朗の黒髪と肩が雨に濡れていた。安寿はあわてて制服のポケットからタオル地のハンカチを取り出して、航志朗の髪と肩を拭いた。
「ありがとう、安寿」
「はい」
安寿は赤くなって下を向いた。
航志朗がスマートフォンを見て言った。
「安寿、面談は三時からだろ? もう時間だぞ」
スマートフォンを持った航志朗の左手の薬指には、真新しい結婚指輪が輝いていた。
(航志朗さん、あの結婚指輪をしている!)
安寿はとても驚いたが、今はそれどころではない。
「航志朗さん、教室はこちらです」と言って、安寿は走り出した。その後を航志朗は追った。安寿は自分の鞄を胸に抱いて、階段を駆け上がって行く。航志朗の目には活発に走る安寿の後ろ姿が新鮮に映った。
二か月前、傷ついた安寿は確かに足を引きずって歩いていたのだ。今の安寿は、まるで自分から走って逃げ去って行くかのように、航志朗には見えた。その瞬間、航志朗は心の奥底から安寿を欲した。
(安寿、俺は絶対に君をつかまえてやる!)