今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 三階にふたりがたどり着くと、教室の出入り口の前で、蒼と彼の母親らしい上品なベージュのスーツを着た控えめな雰囲気の中年女性が教室に向かってお辞儀をしていた。廊下で彼らはすれ違った。安寿は蒼に微笑みかけて小さく手を振ってから、蒼の母にお辞儀をした。安寿の後ろから航志朗も蒼と蒼の母に会釈した。蒼の母は安寿に向かって優しく微笑んだ。蒼は一度振り返り、航志朗の後ろ姿を敵意を込めてにらみつけた。

 「失礼します。山口先生、遅くなりまして申しわけございません」と一礼をして安寿は教室に入った。航志朗も一礼をして後に続いた。

 「岸さん、雨の中をご足労いただきまして、ありがとうございます」と山口はにこやかに言って、三者面談のために用意した窓際の席にふたりを案内した。気づかれないように注意深く航志朗を観察しながらだ。

 (この男が白戸の婚約者か。画家の岸宗嗣の息子の)

 航志朗の左手の薬指につけられた結婚指輪も山口は見逃さなかった。

 (「岸さん」だと? どうして、この男は俺の名前を知っているんだ)

 航志朗は顔にはいっさい出さないが不審に思った。航志朗もまた山口を注視していた。

 (この担任、俺と同じくらいの歳か? こいつ、毎日一日中、同じ空間で、俺の安寿と過ごしやがって!)

 航志朗は安寿の担任教諭に向かって、無意味に腹を立てはじめた。

 航志朗と山口の無言だが互いを探り合うような雰囲気を感じて、安寿は緊張しはじめた。

 山口は席に着くなりファイルを開けて、安寿と航志朗に単刀直入に切り出した。

 「ええと、安寿さんは高校卒業後はご家庭に入られるということで、よろしいですね。先月提出していただいた進路希望調査書の卒業後の進路の欄には、『就職希望』とありますが、つまり永久就職、……ご結婚されるということですよね?」

 思わず安寿は驚愕した。

 (ええっ! どうして、山口先生がそんなことを言うの?)

 安寿は、一瞬、ひどい偏頭痛がして顔をしかめた。

 (「就職希望」だと?)

 航志朗は思わず隣に座っている安寿を見た。安寿は航志朗の鋭い視線に気づいて身が縮む思いをした。

 山口はさらに続けた。

 「私個人といたしましては、大変残念に思います。安寿さんは学科の成績も美術の実技も優秀ですので、内部進学は確実に可能です。何よりも彼女には、確固たる絵の才能があります。確か一年生と二年生の時は内部進学をご希望されていたはずですが、ご結婚が決まったのでしたら致し方ありませんね。まあ、大学とご家庭との両立も可能かと思われますが、お子さんがおできになると難しいのでしょうね」

 少なからず山口は口を滑らせた。山口は安寿と航志朗の濃厚なキスシーンを目撃しているのだ。この目の前のふたりはすでに深い男女関係にあるのだろうと山口は確信していた。そして、山口は航志朗に激しく嫉妬した。実は、山口は安寿が一年生の時から彼女のことが気になっていたのだ。決して目立つ生徒ではないが、安寿には人の心の奥底を揺さぶるような不思議な魅力がある。絵を描く技術のレベルは低いが、凄まじいほどの印象的な絵を描く。入学当初、安寿の画力を厳しく批評していた教師は何を隠そうこの山口であった。

 安寿は真っ赤になってうつむいた。

 (山口先生は何もわかっていない。別に、先生に理解してほしいとも思わないけど)

 冷静に状況を把握した航志朗は、山口に当たり障りなく言った。

 「山口先生、ありがとうございます。安寿の大学進学については、彼女と相談している最中です。ところで、内部進学の希望はいつまでに申し出ればよろしいのでしょうか?」

 「当校では九月末までです。入学当初から三年生の二学期までの成績を元に審査いたします。結果は、十一月後半に出ます」

 「承知いたしました。では、また近いうちにご相談させてください。安寿、いいな?」

 安寿はあわてて航志朗を見上げてうなずいた。そんなふたりを山口は無言で見つめた。

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