今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 午後八時すぎに、咲は安寿の様子を見に行った。安寿は静かに眠っていた。食事室にやって来た岸は伊藤から安寿の体調を聞いて、すぐに安寿の部屋に行こうとしたが、咲に止められた。その後、岸と航志朗は十数年ぶりに二人だけで夕食をとった。岸は息子の仕事の近況を尋ねた。「シンガポールでの事業は順調です。ご心配なく」とだけ、航志朗は父に簡潔に答えた。安寿のことはいっさい話さなかった。まるで安寿について語るのが、このふたりの間ではタブーであるかのように。

 航志朗は風呂に入って客間に行った。客間の時計は午後十時を指していた。畳敷きの客間にはすでに布団が用意されていて、航志朗はその上にうつぶせになった。しばらく航志朗は目を閉じていたが、やがて毛布を持って客間を出て行った。階段も廊下も真っ暗だが電気もつけずに、航志朗は二階の安寿の部屋に向かった。

 航志朗は部屋のドアを少し開けて、「安寿、入るぞ」と小声で言ったが返事はなかった。航志朗は小さなベッドサイドランプだけが灯った薄暗い部屋に入って、ベッドの脇に腰を下ろした。安寿はこんこんと眠っている。眉間に深いしわを寄せた航志朗は安寿を見つめてから、安寿の額に手を当てた。そこは恐ろしく熱くて、航志朗は胸がひどく苦しくなった。その時、そのひんやりとした航志朗の手に安寿が気づいて目を薄く開けた。

 「ごっ、ごめん、安寿! 起こした」

 あわてて航志朗は手を引いた。

 「……航志朗さん」

 安寿はぼんやりと航志朗を見つめた。

 「安寿、具合はどうだ? 何か口にするか」

 「お水が飲みたいです」

 航志朗は台所に水を取りに行こうとしたが、安寿のデスクの上にミネラルウォーターのボトルとグラスが置いてあることに気づいた。航志朗はグラスに水を注ぎ、安寿を抱き起して水を飲ませた。安寿の身体はパジャマ越しでもあきらかにひどい熱を帯びているのが感じられる。航志朗は胸が張り裂けそうになった。航志朗はそっと安寿を横たえて布団を掛け直そうとしたが、安寿は難儀そうに起き上がった。

 「安寿、どうした?」

 「あの、……トイレに行きます」

 航志朗は安寿を抱えてトイレに連れて行った。スリッパを履いた安寿は頼りなげにふらふらと歩いている。航志朗は安寿の背中に回した腕の力を強めた。トイレは同じ二階の北側にある。長い廊下の窓から外を見ると雨はやんでいて、折り重なった雲の間から淡い月の光が見えた。

 安寿が用を足してから、急に尿意を覚えた航志朗も後に続いてトイレに入った。航志朗がトイレのドアを開けると、目の前の暗がりの中で安寿が小さくなってしゃがんでいた。

 その安寿の姿は過去にあったなんらかの出来事を航志朗の脳裏にぼんやりと浮かび上がらせた。だが、その出来事がなんだったのか、航志朗はまったく思い出せなかった。すぐに我に返った航志朗は、安寿を両腕で持ち上げて立たせてから部屋に連れて帰った。

 ベッドに横たわると、すぐに安寿は眠りについた。航志朗は客間から持って来た毛布をかぶって床に座り、安寿を見つめながら腕を組んで考え始めた。

 (大学の学費か。いったいどうしたらいいんだ。安寿は祖父母の遺産だって使えないんだ。俺の金なんて、絶対に受け取らないだろう。じゃあ、俺が彼女に金を貸すって言えばいいのか。いや、それも違うな)

 ため息をついた航志朗は、ふと油絵具の微かな匂いに気づいた。航志朗は安寿の部屋のかたすみに並んでいる数点のキャンバスを見つめた。その瞬間、航志朗にあるアイデアがひらめいた。

 (そうか! そうすればいいんだ。もちろん安寿の同意が必要だが、俺はやる。彼女のために全力で!)

 すぐに航志朗は立ち上がって、そのアイデアを実行に移そうと部屋を出ようとした。その時、目を閉じた安寿がうなされたような小さな声で言った。

 「……行かないで」

 「ん? 寝言か」

 安寿の片方の閉じた目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。すぐに航志朗は安寿のそばに寄って、安寿の顔をのぞき込んだ。

 (恵さんの夢でも見ているのか。それとも、亡くなった母親の……)

 航志朗は顔をしかめて安寿を見つめた。今すぐにでも安寿を抱きしめてあげたいと航志朗は思うが、安寿を起こしてしまうからそれはできない。

 また安寿が言った。今度は泣き出しそうな震える声で。

 「行かないで……」

 そして、続けた。

 「……航志朗さん」

 その言葉に驚愕した航志朗は、その場でどすんと尻もちをついた。

 「な、な、今なんて、なんて言った? 俺の名前を言ったのか!」

 思わず航志朗は表情を崩して叫んだ。

 「安寿!」

 航志朗の胸のなかに安寿への愛おしさが際限なくあふれ出て来て、航志朗は涙が出そうになってしまった。そんな自分に心底驚き、航志朗はものすごくあせった。安寿が眠っているベッドの端に顔を押しつけて泣くのを我慢してから、やっと顔を上げて安寿に小声で言った。

 「行かないよ、安寿。ずっと俺の心は、いつも君のそばにいる」

< 91 / 471 >

この作品をシェア

pagetop