今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 翌日は梅雨の晴れ間だった。岸家の台所の隣にある小部屋で仮眠を取っていた咲が起き上がって時計を見た。午前六時だった。咲は静かに安寿の部屋に向かった。そっと部屋のドアを開けて中をうかがうと、安寿のベッドのそばで航志朗が毛布にくるまって横になって眠っているのが目に入った。安寿もぐっすりと眠っている。ふたりの穏やかな寝息が溶けあって聞こえてくる。頬を赤らめた咲は、心から幸せな気持ちに満たされて微笑んだ。咲はドアを静かに閉めて、足取り軽く台所に戻って行った。そして、咲は鼻歌を歌いながら、今日の仕事を始めた。

 その時、安寿は目を開けて思った。

 (私、いったいどうしたんだろう?)

 安寿はゆっくりと起き上がった。全身が気だるい。

 (ああ、そうだった。私、熱を出したんだ)

 安寿は自分の額に手を当ててみたが、そこは冷たかった。安堵してため息をついた安寿がふとベッドの下を見ると、航志朗が毛布にくるまって丸くなっているのが見えた。

 (私、また彼に迷惑をかけてしまったんだ……)

 デスクの上にあるミネラルウォーターのボトルが目に入り、喉が渇いていることに気づいた安寿は水を飲もうと立ち上がった。だが、足元をふらつかせて転倒し、航志朗の身体の上に乗っかってしまった。

 「きゃっ」

 「わっ」

 安寿と航志朗は至近距離で顔を見合わせた。まだ航志朗は寝ぼけていたが、しっかりと安寿を抱き止めた。

 「ごめんなさい、航志朗さん!」

 あわてて安寿は退こうとしたが、航志朗は離さない。必死になって安寿は航志朗に訴えた。

 「私、昨日、お風呂に入っていないんですよ!」

 航志朗は軽く笑って言った。

 「まったく問題ないよ」

 航志朗は安寿を自分のくるまっている毛布に包み込んでから、安寿の額に手を当てた。そして、ほっとひと安心した。

 「安寿、熱は下がったな。よかった」

 そして、航志朗は全身で離れようともがいている安寿を抱きすくめた。

 航志朗の腕の中の安寿は胸がどきどきしてきて、また熱が上がってしまいそうだった。安寿は目の前の航志朗のパジャマの襟を見て、ふと朝方に見た夢を思い出した。不意に肩を震わせて安寿はくすくす笑い出した。その様子に不思議そうな顔をして航志朗が尋ねた。

 「安寿、どうした?」

 「……夢を見ました」

 「夢?」

 「はい。小さな子どもの私が、航志朗さんに私が描いた絵をあげたんです」

 「そうか。で、その絵はどんな絵だったんだ?」

 「それは覚えていません」

 安寿はまたくすくすひとりで笑って語り始めた。

 「夢のなかの航志朗さんは、ものすごくびっくりしていました。その顔がとっても可笑しくて。航志朗さんは中学生くらいで黒い制服を着ていました。それから、首元に鳥の羽根ようなバッジを着けていました」

 「ふうん、そうか」

 航志朗はまったくわけがわからなかった。夢は見た本人しかわからないものだ。本人さえもわけがわからない時だって多々ある。

 (子どもの頃の彼女が描いた絵か……)

 突然、航志朗は大事なことを思い出して勢いよく起き上がった。怪訝な面持ちの安寿も、航志朗に続いてゆっくりと起き上がった。

 航志朗は安寿の両手を握って自分の正面に向かせてから、安寿の目を見て真剣なまなざしで言った。

 「安寿、君に話があるんだ。聞いてほしい」

 「はい」と返事をした安寿は吸い込まれるように航志朗の琥珀色の眼を見つめた。そこには揺るぎない強い光が宿っている。

 「俺は君の専属のギャラリストになる。そして、君が描いた絵を売って金をつくる。そうすれば、大学の学費が賄えるだろ?」

 驚いた安寿が尋ねた。

 「岸先生と華鶴さんみたいに、ですか?」

 「まあ、そうだ。俺はギャラリーを所有していないけれどな。ところで、清華美術大学の学費は年間でどのくらいかかるんだ?」

 「……二百万円くらいです」

 「わかった。まず九月末までに、一年目の学費を用意する」

 その断定的な言葉を聞いた安寿は大きな後悔の念にさいなまれて心苦しくなった。

 (そんなことできるわけがないじゃない! 二百万円なんてとてつもない大金よ。どうして私は中三の時に美大はそんなにもお金がかかるって考えなかったんだろう。私立高校の学費だって、私は恵ちゃんに大きな負担をかけてしまっていたんだ。私は本当に無知で無力な自分が大嫌い!)

 「私の絵なんて、絶対に売れるわけがないです!」と安寿は悲痛な気持ちになって叫んだ。

 だが、航志朗は不敵ににやっと笑って言った。

 「本当にそうか? やってみなければ、結果はわからないだろ」

 航志朗の表情はとてつもない自信にあふれていた。

 (どうして、彼は私にそこまでしてくれるの?)

 安寿は涙が出そうになった。こんなにも愚かな自分のせいで、また航志朗に迷惑をかけてしまうことになる。

 その時、「安寿、俺と一緒にやってみよう!」といきなり明るい笑顔で航志朗が大声をあげた。安寿はびくっと身体を震わせて驚いた。その航志朗の力強い言葉は、安寿の頑なな心にひびを入れた。母を亡くしてからずっと安寿の心を硬く覆っていた無彩色の殻が崩れて落ちていく乾いた音がした。

 「一緒に?」

 その瞬間、安寿の心の奥底に温かいひとすじの光が差し込んだ。

 「そうだ。君と俺が一緒に」

 航志朗は安寿に力強くうなずいて、つないだ手をいっそう力強く握りしめた。

 安寿は窓が開いていないというのに外から爽やかな風が吹いて来たように感じた。安寿は航志朗の琥珀色の瞳のなかに猛々しく輝く予感を見つけて、心が激しく揺さぶられた。

 (彼と一緒なら私は強くなれるかもしれない。これから何があっても)

 そして、覚悟を決めた安寿は航志朗に頭を下げてから言った。

 「航志朗さん、私、やります。どうぞよろしくお願いします」

 「よし、決まりだな!」 
 
 航志朗は安寿とつないだ手を上下に振って満足そうに笑った。

 「あの、航志朗さん。私は何をすればいいですか?」

 「そうだな。まず、君と俺で専属契約を結ぼうか」

 「それは、契約書を交わすということですか?」

 「いや、書類は不要だ。じゃあ、これから口約束を交わそう」と言って、また航志朗は愉しそうににやっと笑った。

 「『口約束』、ですか?」

 不思議そうに安寿は首をかしげた。

 「こうやって……」と言って、突然、航志朗は安寿を抱き寄せて唇を重ねた。安寿は真っ赤になって目を見開いた。だが、安寿はあらがわなかった。熱く燃えるような航志朗の胸に強く抱きしめられて、安寿は思わず自分から両手を航志朗の背中に回してしがみついた。高熱を出した翌朝だ。安寿の身も心もすっかり無防備になっていた。航志朗はその安寿の感触に全身がわななき、さらに強く安寿を抱きしめて唇を押しつけた。一瞬、理性が脳裏をかすめた安寿は「だめっ、風邪がうつりますよ!」と航志朗から顔を離して悲鳴に似た声をあげたが、航志朗は「構わない」と言って安寿の顎をつかみ、また強引に唇を重ねて、安寿の唇をゆっくりとこじ開け始めた。

 そこへドアをノックする音とともに、咲の歌うような明るい声が聞こえた。

 「安寿さま、おかげんはいかがでしょうか?」

 その声に安寿と航志朗は飛び上がり、あわてて離れた。

 「失礼しますよ」と言って、咲は部屋に入って来て、呆然とベッドの上に座っている安寿の額に手を当てた。

 「あら、まだちょっと微熱があるかしら? でも、昨晩よりはずっと下がっているから大丈夫ですね。そろそろ何か召しあがりますか。これからここにご朝食をお持ちしましょう。もちろん、航志朗坊っちゃんのご朝食も一緒にね」と咲は言って、床に座り込んだ航志朗を微笑みながら見下ろして、いそいそと台所に戻って行った。

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