今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿と航志朗は顔を見合わせて、恥ずかしそうに苦笑いして下を向いた。航志朗は安寿に毛布を掛けてから、ライトベージュのカーテンを引いて窓を開けて空気を入れ替えた。

 航志朗はふと思い出したかのように言った。

 「本当に不思議だよな、俺の子どもの頃の部屋に君と一緒にいるなんて。それに、あのカーテンもこのカーペットも、君が恵さんと一緒に住んでいた家と同じ色にしたんだな」

 思わず安寿はその言葉に感嘆した。

 (あの家のカーテンとカーペットの色を覚えているなんて)

 急に思いついて安寿が尋ねた。

 「航志朗さん、お仕事があって急遽ご帰国されたのですか?」

 「ああ。これからハワイに行く。オアフの美術館に父の作品を納品しに」

 「それはいつですか?」

 「今夜のフライトだ」

 見るまに表情を曇らせた安寿はうつむいて言った。

 「そうですか。梅雨空の日本と違って、ハワイはきっと気持ちのよいお天気なんでしょうね」

 航志朗は立ち上がって安寿の隣に座った。航志朗の腰が身体に触れて、安寿は胸がどきっとした。

 「安寿、八月に休暇を取って帰って来る」

 下を向いたまま安寿は微笑んでうなずいた。航志朗は安寿の手をしっかりと握りしめた。
 
 咲がふたりの朝食を大きなトレイにのせて運んできた。安寿には卵入りの玄米粥で、航志朗には鮭のおにぎりとだし巻き卵だ。それに、すりおろしたリンゴとくし形切りにしたリンゴも添えてある。安寿と航志朗は布団の上に座って、一緒に食べ始めた。ふたりともおいしそうな表情をして目を細めて見つめ合った。その様子を見た咲は微笑みながら、そっと部屋を出て行った。すっかり安堵した笑顔を浮かべた航志朗がポットに入ったほうじ茶をマグカップに注いで安寿に手渡して言った。

 「それだけ食べられれば、もう大丈夫だな。でも、今日はゆっくりベッドで過ごしたほうがいい」

 「はい。そうします」と安寿は素直に言った。

 「着替えてくる」と言って、食事が済んだ食器がのったトレイと毛布を持って航志朗は部屋を出て行った。安寿は体温計で熱を測って平熱に戻っていることを確認してひと安心した。それから、オーガニックコットンの生成りのワンピースに着替えてトイレの隣にある洗面台に行って、顔を洗って髪をとかし歯磨きをして身支度を整えた。

 部屋に戻り窓際に座って久しぶりの陽ざしを浴びていると、部屋のドアをノックする音がした。安寿がドアを開けると、岸が心配そうな表情で立っていた。岸は安寿の部屋に入らずにドアの外で言った。

 「安寿さん、お身体の具合はいかがですか?」

 岸の顔を見て安寿はほっとしながら言った。

 「岸先生、ご心配をおかけしてしまって申しわけありません。熱は下がりましたので大丈夫です」

 「それはよかった。今日はモデルの仕事はお休みにしましょう。ゆっくり休んでください」

 安寿はお辞儀をして礼を述べた。

 「はい。岸先生、ありがとうございます」

 岸は階段を降りる途中で、大きな包みを抱えた航志朗とすれ違った。航志朗は、岸に「お父さん、おはようございます」と言って会釈した。岸は航志朗をひと目見るなり、冷静だがあきらかに命令するような口調で言った。

 「航志朗、安寿さんに近づくな」

 一瞬、航志朗は凍りついた。

 階段を下りてアトリエに向かう岸の背中を見ながら、航志朗は胸の内で吐き捨てるように言った。

 (お父さん。お言葉ですが、僕たちはもうとっくに近づいていますけれどね)

 安寿の部屋に戻って来た航志朗は、部屋の中に安寿がいないことに気がついた。ふと見ると、バルコニーへ出る窓が開いていた。航志朗はあわててバルコニーに出てぼんやりと空を見上げていた安寿を引っぱって部屋の中に連れ戻し、有無を言わさずに安寿をベッドの上に座らせて毛布を掛けた。

 「おいおい、安寿。今日はベッドで休めって言っただろ」

 「はい。でも、今日は久しぶりに晴れていて、とても気持ちがいいですよ」

 そう言って可愛らしく微笑む安寿を見てたまらない気持ちになった航志朗は、思わず深いため息をついた。

 航志朗は持って来た大きな包みを安寿に手渡した。不思議そうに安寿は包みを受け取った。それはずっしりと重かった。

 「イギリスの土産だ。開けてごらん、安寿」

 「えっ? あ、ありがとうございます。……あっ!」

 ブラックウォッチの包装紙の中から真新しい画集が出てきた。

 「最新版のラファエル前派の画集だよ。マンションのブックシェルフの中にある画集は古いから、カラーページの色彩がいまいちだろ。今はネットでいくらでも見られるけれど、俺は紙の本の方が好きなんだ」

 「嬉しいです! 航志朗さん、ありがとうございます」と言って、目を輝かせた安寿は急いでページをめくろうとしたが、目の前で航志朗に画集を取り上げられた。

 「今はだめだ。体調が完全に回復してから読んだ方がいい」

 「……はい」

 そう返事をしつつも安寿は少し頬をふくらませて、航志朗をうらめしそうににらんだ。

 航志朗はくすっと笑ってから「そんな顔するなよ、安寿」と言って、安寿の左手をそっと取った。そして、航志朗は安寿の左手の薬指に結婚指輪をはめた。

 安寿は息を呑んだ。自分の左手の薬指の指輪が、陽の光を反射して白く輝いている。安寿は驚いて目の前の航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。航志朗の瞳の奥が金色に輝いている。安寿はその光がなぜだかとても懐かしい感じがして、不思議に思った。航志朗は安寿の目を見て優しく微笑みながら、ゆっくりと安寿を抱きしめた。安寿は航志朗の安心させてくれる匂いに満たされた。だんだん身体の力が抜けていくのを安寿は他人事のように感じた。航志朗は右手で安寿の顎を自分の顔に引き寄せた。ふたりの唇が近づく。その時、ドアをノックする音が三回した。驚いた安寿と航志朗はあわてて離れた。

 「安寿さま、航志朗坊っちゃん、ご昼食はどうされますか?」

 伊藤だった。時計を見るともう正午だ。
 
 伊藤はドアを少し開けて、部屋の中には入らずに言った。

 「こちらにお持ちいたしましょうか。それとも食事室で召しあがりますか。先程、華鶴奥さまがいらっしゃいましたので、せっかくですからご家族の皆さまでご昼食をいかがでしょうか」

 すぐに安寿が言った。

 「はい、わかりました。これから食事室に参ります」

 航志朗は華鶴と顔を合わせたくはないが仕方がない。ふたりで食事室に行くことにした。

 食事室に向かいながら、航志朗は心の底から腹立たしく思った。

 (この家にいたら、必ず邪魔が入るな)

 サロンのソファに座っていた華鶴が安寿に気づいて立ち上がり、心配そうに声をかけた。

 「安寿さん、熱を出したって聞いたけれど、大丈夫なの?」と言って、華鶴は安寿の肩を抱いて額に手を当てた。そのあまりの冷たさに、安寿は背中がぞくっとした。華鶴は「無理しちゃだめよ、安寿さん。あなたは、本当にがんばり屋さんなんだから」と言って、そのまま安寿と華鶴は食事室に向かった。華鶴は一度振り向いて航志朗の顔を見た。航志朗は無表情で華鶴の顔を見返した。

 アトリエから岸もやって来て、四人は一緒に昼食をとり始めた。

 ミネラルウォーターが注がれたグラスを置いて華鶴が航志朗に訊いた。

 「航志朗さん、ホノルルへのフライトは何時発なの?」

 「成田から午後八時発です。四時にはここを出ます」

 その言葉を聞いた安寿はすぐに食事室の時計を見た。午後一時半を過ぎていた。

 (あと、二時間半しかない……)

 急に胸がふさいだ安寿は思わず下を向いた。隣の席の安寿の様子を見た航志朗は立ち上がった。航志朗は食後のティーセットを用意しようとしていた伊藤のそばに行き、トレイに二客のティーカップと紅茶の入ったポットをのせて持ち、安寿の手を取って両親に向かって言った。

 「出かける時間まで、妻と二人きりで部屋で過ごします」

 航志朗は無理やり安寿を引っぱって食事室を後にした。華鶴がそんなふたりの後ろ姿を見て、可笑しそうに笑いながら言った。

 「あらあら。航志朗さんったら、本気で安寿さんに恋してしまったのかしら。これから大変だわ。ねえ、宗嗣さん?」

 岸は何も答えずに、目を伏せて紅茶を飲んだ。

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