今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第10章 オアフからミラノへ

第1節

 成田空港の客足がまばらな静かなラウンジで、航志朗はデカフェを飲んでいた。目の前の窓ガラスの外には漆黒の闇が広がっている。航志朗はライトアップされた離陸を待つ旅客機を見た。航空整備士が最終安全点検を行っている。時刻は午後七時すぎだ。航志朗はかたわらに置いてあるアタッシェケースをしばらく見つめてから、おもむろにスマートフォンを繰って電話をかけた。

 「チャオ。ブルーノ、俺だ」

 『チャオ、コーシ。二か月ぶりだな』

 「ブルーノ、君に頼みたいことがあるんだが……」

 もうすぐ、ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港へのフライトの搭乗時間だ。デカフェを飲み終えた航志朗は左手に目を落とし、その薬指の結婚指輪をそっと右手でなでた。やがて搭乗案内のアナウンスが流れ、機内への搭乗が始まった。航志朗はゆっくりと立ち上がってアタッシェケースを手に持ち、搭乗ゲートに向かって行った。

 ビジネスクラスの座席のサイドテーブルにノートパソコンを置いてしばらく航志朗は仕事をしていた。日本時間の午前零時を過ぎて、すでに消灯された機内は暗く辺りはとても静かだ。航志朗はふと隣の座席に置いてあったアタッシェケースを膝の上に置いて開き、中から注意深く黄金布に包まれた父の油彩画を取り出した。まだ航志朗は安寿がモデルになった岸の油彩画を見ていなかった。読書灯を当ててその絵を見て、航志朗は思わず目を見開いて息を呑んだ。習作らしい淡く油絵具が塗られた写実描写にはほど遠い未完成の絵だ。だが、おぼろげにモデルの息遣いや体温が感じられる絵だった。しかも、そのモデルは安寿なのだ。航志朗は胸が張り裂けそうになったが、絵から目をそらすことはできなかった。レモンイエローの明るい色のワンピースを着た輪郭の薄い安寿が見覚えのある肘掛け椅子に腰掛けて遠くを見ている。
 
 そこへキャビンアテンダントが通りかかった。金色の髪をアップにした背の高い彼女は、顔をほころばせて航志朗に英語で話しかけた。もちろん小声でだ。

 「まあ、お客さま。とても美しい絵ですね。可愛い赤ちゃんを抱っこしたママの絵! 実は、先程、私の姉がポートランドで初めての赤ちゃんを無事に出産したんですよ。このフライトの仕事が終わったら、すぐにふたりに会いに行きます」

 航志朗も彼女に微笑んで小声で言った。

 「それは、おめでとうございます。おふたりに会うのが楽しみですね」

 航志朗の左手の薬指をちらっと見たそのキャビンアテンダントは、「何かお飲み物でもいかがですか」と尋ねたが、航志朗はこれから少し眠るからと断った。そして、彼女は去り際に航志朗に笑いかけてウインクして言った。

 「その絵のおふたりは、あなたのワイフと息子さんね! 当たりでしょ?」

 航志朗は内心驚いた。

 (ん? 俺の妻と息子? へえ、彼女にはこの絵がそう見えるんだ)

 そして、航志朗は半分照れながら思った。

 (可愛い赤ちゃんを抱っこした安寿か。当然、俺との子どもだよな。いつか俺たちにはそういう日が来るんだな)

 航志朗はジャケットを脱いでから、スタッガードシートをフルフラットにして脚を伸ばし毛布を掛けて横になった。その時、航志朗は気づいた。今、着ているシャツから安寿の匂いがすることに。航志朗はきつく胸がしめつけられた。今、時速約九百キロで安寿から遠ざかっている。

 (安寿、俺はいつも君を想っている。俺の心はずっと君と一緒にいる)

 そして、航志朗は目を閉じた。

 同じ頃、安寿はベッドサイドランプだけが灯った自室のベッドにうつぶせになって、航志朗から贈ってもらった画集に見入っていた。その美しいカラーページは、少しだけだが、安寿の孤独な心を慰めてくれた。安寿はほのかな灯りに左手の薬指をかざした。プラチナ製の結婚指輪がほんのりと白く光った。

 (今頃、彼はどのあたりにいるんだろう。きっと遠く遠く離れた太平洋の上……)

 その時、安寿は気づいた。今、くるまっている毛布から航志朗の匂いがすることに。思わず安寿はその毛布を強く抱きしめた。そして、そのまま安寿は目を閉じた。

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