今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
カチャカチャと何かが擦れ合う音に、航志朗は目が覚めた。
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
航志朗は目を開けると、照明が灯されて明るくなった機内で、キャビンアテンダントたちが手際よく朝食を配っている姿が目に入った。窓の外を見ると、ちょうど日の出の時間だった。航志朗は大あくびをしながら起き上がった。
(よく眠れたな。この彼女の匂いのおかげだ)
小窓の外にオアフ島が見えてきた。茶色い肌がむき出しの荒々しい山々が航志朗を迎えた。成田空港から約六時間のフライトだ。あっという間だった。
空港の外に出ると、航志朗は身体を優しくなでるような甘く柔らかい風を感じた。シンガポールとはまた違うこの土地の風だ。航志朗はホテルにチェックインして部屋に入ると、すぐにシャワーを浴びた。そして、バスローブを着て冷たいミネラルウォーターを飲みながら、オーシャンビューのバルコニーに出た。朝の光にきらめく青い海が目の前に広がっている。どこからか、ウクレレをゆったりと爪弾く音が聞こえてきた。現在の時刻はハワイ時間午前八時。日本との時差はマイナス十九時間。今、東京は翌日の午前三時だ。
(今、彼女はあの部屋で眠っているのだろう。安寿、体調は大丈夫か)
航志朗は心の底から心配になった。航志朗は別れ際に安寿が目を真っ赤に腫らしていたことを思い出した。ベッドで一人きりで起きて寂しくなって泣いていたのかもしれないと思うと、航志朗は胸が苦しくなった。今は手を伸ばしても、安寿に触れることができない。ハワイの底抜けに明るい陽気な日射しが航志朗を照らしているが、航志朗の心のうちは薄暗く曇っていた。隣に安寿がいたらどんなにいいだろうとどうしても考えてしまう。
(もし、今、ここに、安寿がいたら、俺は彼女を抱きしめる。そして、うつむいた彼女の頬にキスして……)
航志朗は想像するのをやめて、軽くため息をついた。
今日のミセス・ナカジマとのアポイントメントは午後一時だ。ホテルのルームサービスで遅い朝食を取ってから、時間に余裕があった航志朗はホテルのプールでひと泳ぎした。そして、プールサイドでコナコーヒーを飲んだ。
航志朗はアタッシェケースを抱え、ホテルからタクシーでハワイカイ地区に向かった。ワイキキから海岸線を走り二十分ほどで豪邸が建ち並ぶポートロック・ロードに到着した。そこはハワイ屈指の閑静な高級住宅地だ。
その小高い丘の上に、ナカジマ・アート・ミュージアムの館長マリコ・アネラ・ナカジマの邸宅がある。マリコは六十代後半で、古くからの華鶴の親友だ。十年前、彼女の夫で実業家のアレクサンダー・K・ナカジマ氏が逝去してから、マリコは油彩の風景画のコレクターだった夫のコレクションを一般公開する私設美術館を自宅敷地内に開館した。
そのコレクションは東北出身の日本人をルーツに持つナカジマらしい日本の原風景を想い起させるような風景画だ。岸の風景画はスケッチも含めて二十三点所有している。華鶴にとってナカジマは、このうえない上質な顧客だった。美術館は完全予約制で開館している。その客のほとんどがアメリカ在住の日本をルーツに持つ人びとで、彼らの憩いの場所になっている。
タクシーを降りた航志朗は精巧な龍の彫刻がほどこされた中華風の門柱のインターホンを押した。すぐに応答があり、マリコの秘書だと名乗る中年女性が門を開けて、「アロハ!」と言って航志朗を笑顔で中に招き入れた。
敷地のアプローチを進むと急に視界が開け、ダイヤモンドヘッドを臨む絵のように美しい場所に建つ小さな美術館が目に入った。航志朗はまた安寿への想いにふけった。
(今、ここに、彼女がいたら、俺の腕をすり抜けて、この美しい風景を描き始めるんだろうな……)
「アロハ! 航志朗くん、二十年ぶり? あらまあ、すっかりグッドルッキングガイになっちゃって!」
航志朗の後ろから真っ白なミニのタイトワンピースをまとったマリコが笑顔でやって来て、航志朗に日本語で話しかけた。マリコはよく日焼けをしていて溌溂としている。未亡人とは微塵も感じさせない。マリコは航志朗の顔をのぞき込んで言った。
「なんだかあなた元気ないわね。わかった! お腹空いたんじゃないの。こっちにいらっしゃい」と言って手招きしたマリコは、航志朗をまるで小さな男の子を扱うかのように邸宅の中に連れて行った。
リビングルームに入ると、大きな窓一面に青い海が広がっている。ローテーブルにはカラフルにシュガーコーティングされたカップケーキやドーナツがたくさん並んでいた。
マリコは「ほら、遠慮なく食べなさい!」と言って航志朗に勧めた。先程の秘書がしぼりたてのフレッシュオレンジジュースを持って来た。
(俺、アメリカのケーキって、甘過ぎて苦手なんだよな……)と内心思いつつも、航志朗はチョコチップ入りのドーナツを取って口にした。マリコはショッキングピンクのカップケーキをおいしそうに食べている。
マリコは航志朗のドーナツを持った左手の薬指の指輪を目ざとく見つけて大声で言った。
「あらっ、あなた、結婚したのね!」
「あ、はい」
「お子さんは?」
「えっ? ええと、……まだです」
航志朗は結婚してから、初めて子どものことを他人から訊かれて面食らった。
(アメリカ人に子どもの有無を訊かれるとはな。彼女の中身は生粋の日本人なんだな)と航志朗は考えた。そして、ため息まじりに思った。
(子どもって……。そもそも俺と安寿は、まだ子どもができるようなことをしていないんだよな)
思わず落ち込んだ航志朗はうつむいてオレンジジュースに添えられたペーパーストローの先を曲げた。そんな航志朗を見てマリコは、「ほらほら、どんどん食べなさい!」と言って派手な色のカップケーキを取って航志朗の目の前に突き出した。航志朗は礼を言いつつ、渋々それを受け取ってかじりついた。砂糖の固まりをかじっているようにものすごく甘かったが、意外においしかった。
ティータイムがひと段落すると、航志朗とマリコはゴージャスなバスルームで手を洗ってよく拭き、本題に入った。
航志朗はアタッシェケースを開けて、白手袋をはめてから二枚の油彩画を取り出した。まずマリコは岸の風景画を見て何度もうなずき、天井を向いて投げキッスをして言った。
「素晴らしいわ! やっとまたイワテの田園風景が手に入ったわね。きっと天国のアレックスも喜んでいると思う」
マリコはしばらくその風景画を目を細めて懐かしそうに眺めていた。
次は安寿の姿が描かれた油彩画だ。ずっと航志朗は不思議に思っていた。ナカジマ・コレクションは風景画ばかりのはずなのに、今回なぜ人物画を購入するのだろう。それも習作だというのに。
マリコはその絵を受け取ってから、しばらくそれを膝に立てて無言で見つめていた。そして、ぽつんと言った。
「……そう。待っているの」
マリコの黒い瞳に見る見るうちに涙がたまっていった。航志朗は何も言わずに、静かにマリコの様子を見守っていた。
(マリコさんには、いったい何が見えているんだろう)
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
航志朗は目を開けると、照明が灯されて明るくなった機内で、キャビンアテンダントたちが手際よく朝食を配っている姿が目に入った。窓の外を見ると、ちょうど日の出の時間だった。航志朗は大あくびをしながら起き上がった。
(よく眠れたな。この彼女の匂いのおかげだ)
小窓の外にオアフ島が見えてきた。茶色い肌がむき出しの荒々しい山々が航志朗を迎えた。成田空港から約六時間のフライトだ。あっという間だった。
空港の外に出ると、航志朗は身体を優しくなでるような甘く柔らかい風を感じた。シンガポールとはまた違うこの土地の風だ。航志朗はホテルにチェックインして部屋に入ると、すぐにシャワーを浴びた。そして、バスローブを着て冷たいミネラルウォーターを飲みながら、オーシャンビューのバルコニーに出た。朝の光にきらめく青い海が目の前に広がっている。どこからか、ウクレレをゆったりと爪弾く音が聞こえてきた。現在の時刻はハワイ時間午前八時。日本との時差はマイナス十九時間。今、東京は翌日の午前三時だ。
(今、彼女はあの部屋で眠っているのだろう。安寿、体調は大丈夫か)
航志朗は心の底から心配になった。航志朗は別れ際に安寿が目を真っ赤に腫らしていたことを思い出した。ベッドで一人きりで起きて寂しくなって泣いていたのかもしれないと思うと、航志朗は胸が苦しくなった。今は手を伸ばしても、安寿に触れることができない。ハワイの底抜けに明るい陽気な日射しが航志朗を照らしているが、航志朗の心のうちは薄暗く曇っていた。隣に安寿がいたらどんなにいいだろうとどうしても考えてしまう。
(もし、今、ここに、安寿がいたら、俺は彼女を抱きしめる。そして、うつむいた彼女の頬にキスして……)
航志朗は想像するのをやめて、軽くため息をついた。
今日のミセス・ナカジマとのアポイントメントは午後一時だ。ホテルのルームサービスで遅い朝食を取ってから、時間に余裕があった航志朗はホテルのプールでひと泳ぎした。そして、プールサイドでコナコーヒーを飲んだ。
航志朗はアタッシェケースを抱え、ホテルからタクシーでハワイカイ地区に向かった。ワイキキから海岸線を走り二十分ほどで豪邸が建ち並ぶポートロック・ロードに到着した。そこはハワイ屈指の閑静な高級住宅地だ。
その小高い丘の上に、ナカジマ・アート・ミュージアムの館長マリコ・アネラ・ナカジマの邸宅がある。マリコは六十代後半で、古くからの華鶴の親友だ。十年前、彼女の夫で実業家のアレクサンダー・K・ナカジマ氏が逝去してから、マリコは油彩の風景画のコレクターだった夫のコレクションを一般公開する私設美術館を自宅敷地内に開館した。
そのコレクションは東北出身の日本人をルーツに持つナカジマらしい日本の原風景を想い起させるような風景画だ。岸の風景画はスケッチも含めて二十三点所有している。華鶴にとってナカジマは、このうえない上質な顧客だった。美術館は完全予約制で開館している。その客のほとんどがアメリカ在住の日本をルーツに持つ人びとで、彼らの憩いの場所になっている。
タクシーを降りた航志朗は精巧な龍の彫刻がほどこされた中華風の門柱のインターホンを押した。すぐに応答があり、マリコの秘書だと名乗る中年女性が門を開けて、「アロハ!」と言って航志朗を笑顔で中に招き入れた。
敷地のアプローチを進むと急に視界が開け、ダイヤモンドヘッドを臨む絵のように美しい場所に建つ小さな美術館が目に入った。航志朗はまた安寿への想いにふけった。
(今、ここに、彼女がいたら、俺の腕をすり抜けて、この美しい風景を描き始めるんだろうな……)
「アロハ! 航志朗くん、二十年ぶり? あらまあ、すっかりグッドルッキングガイになっちゃって!」
航志朗の後ろから真っ白なミニのタイトワンピースをまとったマリコが笑顔でやって来て、航志朗に日本語で話しかけた。マリコはよく日焼けをしていて溌溂としている。未亡人とは微塵も感じさせない。マリコは航志朗の顔をのぞき込んで言った。
「なんだかあなた元気ないわね。わかった! お腹空いたんじゃないの。こっちにいらっしゃい」と言って手招きしたマリコは、航志朗をまるで小さな男の子を扱うかのように邸宅の中に連れて行った。
リビングルームに入ると、大きな窓一面に青い海が広がっている。ローテーブルにはカラフルにシュガーコーティングされたカップケーキやドーナツがたくさん並んでいた。
マリコは「ほら、遠慮なく食べなさい!」と言って航志朗に勧めた。先程の秘書がしぼりたてのフレッシュオレンジジュースを持って来た。
(俺、アメリカのケーキって、甘過ぎて苦手なんだよな……)と内心思いつつも、航志朗はチョコチップ入りのドーナツを取って口にした。マリコはショッキングピンクのカップケーキをおいしそうに食べている。
マリコは航志朗のドーナツを持った左手の薬指の指輪を目ざとく見つけて大声で言った。
「あらっ、あなた、結婚したのね!」
「あ、はい」
「お子さんは?」
「えっ? ええと、……まだです」
航志朗は結婚してから、初めて子どものことを他人から訊かれて面食らった。
(アメリカ人に子どもの有無を訊かれるとはな。彼女の中身は生粋の日本人なんだな)と航志朗は考えた。そして、ため息まじりに思った。
(子どもって……。そもそも俺と安寿は、まだ子どもができるようなことをしていないんだよな)
思わず落ち込んだ航志朗はうつむいてオレンジジュースに添えられたペーパーストローの先を曲げた。そんな航志朗を見てマリコは、「ほらほら、どんどん食べなさい!」と言って派手な色のカップケーキを取って航志朗の目の前に突き出した。航志朗は礼を言いつつ、渋々それを受け取ってかじりついた。砂糖の固まりをかじっているようにものすごく甘かったが、意外においしかった。
ティータイムがひと段落すると、航志朗とマリコはゴージャスなバスルームで手を洗ってよく拭き、本題に入った。
航志朗はアタッシェケースを開けて、白手袋をはめてから二枚の油彩画を取り出した。まずマリコは岸の風景画を見て何度もうなずき、天井を向いて投げキッスをして言った。
「素晴らしいわ! やっとまたイワテの田園風景が手に入ったわね。きっと天国のアレックスも喜んでいると思う」
マリコはしばらくその風景画を目を細めて懐かしそうに眺めていた。
次は安寿の姿が描かれた油彩画だ。ずっと航志朗は不思議に思っていた。ナカジマ・コレクションは風景画ばかりのはずなのに、今回なぜ人物画を購入するのだろう。それも習作だというのに。
マリコはその絵を受け取ってから、しばらくそれを膝に立てて無言で見つめていた。そして、ぽつんと言った。
「……そう。待っているの」
マリコの黒い瞳に見る見るうちに涙がたまっていった。航志朗は何も言わずに、静かにマリコの様子を見守っていた。
(マリコさんには、いったい何が見えているんだろう)