今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その翌日の午前五時すぎに、航志朗はロサンゼルス国際空港に到着した。ミラノ行きの乗り換えの便を待っている間に、航志朗は安寿に電話した。東京は午後十時だ。

 今夜もベッドの上で安寿はラファエル前派の画集を見ていた。かたわらにはスマートフォンと英和辞典が置いてある。

 ため息をついて安寿は思った。

 (この画集って研究書なのかな。この英文、さっぱり意味がわからない)

 窓の外は小雨が降っていた。梅雨はまだ明けていない。その時、安寿のスマートフォンが鳴った。航志朗からだった。安寿の胸の鼓動がいきなり早まった。安寿は一回深呼吸してから、スマートフォンをタップした。

 「もしもし、航志朗さん?」

 『安寿、身体の具合は大丈夫か?』

 安寿は航志朗の声に全身が温かい安心感に包まれていくのを感じた。

 「はい。大丈夫です。ご心配をおかけしてしまって、本当にすいません」

 遠くから航志朗の安堵したような吐息が聞こえた。

 「今、ハワイにいらっしゃるんですか?」

 『いや、今、ロサンゼルス空港にいる。これからミラノに行く』

 安寿は驚きの声をあげた。

 「これからイタリアに行くんですか!」

 『ああ。君の絵を売りに行く。ミラノで国際的なアートフェアが開催されるんだ。ブルーノが出店するから、それに便乗させてもらう』

 「ブルーノさんて、この前の……」

 安寿は栗色の瞳のブルーノの濃厚なチークキスの感触を思い出した。

 いきなり明るい口調になって航志朗が言い出した。

 『安寿、ミラノのモンテナポレオーネ通りで何か買って来てあげようか。イタリアンブランドのバッグとか、靴とか』

 安寿は金銭感覚がまったく違う航志朗の無神経さに腹が立ってきた。

 (もう! 私は大学の学費のことで頭がいっぱいなのに。散財のご相談なんて)

 安寿は目をつむって素っ気なく言った。

 「何もいらないです」

 『どうして? 遠慮するなよ、安寿。何でも買ってやるぞ』

 「いらないです」

 『何を怒っているんだ?』

 「怒ってなんかいないです」

 『……そうか?』

 安寿は気持ちを落ち着けて思った。

 (怒っちゃだめでしょ。彼は私のためにわざわざイタリアにまで足を運んでくれているんだから。ものすごく忙しいひとなのに。それにしても、航志朗さんの身体のほうこそ大丈夫なのかな)

 急に安寿は心配になって大声を出して言った。

 「あの、航志朗さん、くれぐれもお身体には気をつけてください。絶対に無理はしないでくださいね!」

 『わかった。ありがとう、安寿。じゃあ、またな』

 航志朗は安寿の言葉に身体の芯が温かくなった。そして、つくづく思った。

 (彼女が俺の身体を心配してくれている。そうだ。俺たちは家族なんだよな)

 航志朗は顔を上げて、窓の外のロサンゼルスの空を眺めた。雲ひとつない大空はどこまでも青く透き通っていた。そして、航志朗はアタッシェケースを大事そうに抱えてミラノ行きの飛行機の搭乗ゲートに向かった。その時、ゲートリーダーの成田空港行きのフライトの搭乗案内アナウンスが聞こえてきた。思わず航志朗は肩を落としてため息をついた。

 (本当は、向こうの便に乗りたい……)

 (私、まだ、どきどきしてる)

 ため息をついた安寿は毛布にくるまった。その毛布はまだ微かに航志朗の匂いがする。目を固く閉じた安寿は結婚指輪をつけた左手を胸に抱いて眠りについた。

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