今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
再び航志朗は空の上に出た。航志朗はしばらくノートパソコンに向かい、アンにメールを送信した。シンガポールは真夜中だ。きっとアンはヴァイオレットと抱き合って眠っていることだろう。そして、まだ安寿も眠っている時間だ。
航志朗は腕を組んで小窓の外を見た。外は真っ暗で何も見えなかった。今、自分はどこにいて、どこへ向かっているのだろうか。今の自分の立ち位置を見失ってしまうひとときだ。こんな時、以前の航志朗だったら、めまいにも似た混乱を覚えたはずだ。だが、今の彼は違った。航志朗は知っている。世界中のどこにいても、どこへ向かっていても、最後には帰るところがあると。心から愛する安寿のもとへ。
消灯した機内は低い排気音が聞こえてくるだけで、とても静かだ。そこへ赤ら顔の恰幅のよい男が、イタリア語でプッチーニのアリアを大声を出して歌いながらほろ酔いかげんでトイレに向かっていた。それを見かねた若いレディシュのキャビンアテンダントが、両手を腰に当てて小声でその男に注意した。すぐにその男はしゅんとしておとなしくなった。航志朗はその一部始終を見物して肩を震わせた。
ロサンゼルス空港を出発してから約十四時間後に、航志朗はミラノ・マルペンサ国際空港に降り立った。到着ロビーに出ると、コーヒーブラウンの上品なジャケットを着こなした巨漢の男が大きく手を振って航志朗を出迎えた。ブルーノ・デ・アンジェリスだ。
「コーシ! ようこそ、我がイタリアへ」
ブルーノはオペラ歌手のように大げさな身振りで航志朗を抱きしめて歓迎した。
航志朗は四歳の時に両親に連れられて初めてイタリアを訪問した。その旅の途中でミラノを訪れた。当時、岸と華鶴はブルーノの父が経営していた画廊と取引があったのだ。その時、航志朗は中学校からの帰宅途中に父の画廊に寄っていたブルーノと出会っていた。航志朗にはその記憶がまったくないのだが、ブルーノは航志朗を鮮明に覚えていた。日本からやって来たアンバーアイを持つラファエロの絵から抜け出て来たような小さな男の子を。また、その男の子の母親である美しい日本人女性にブルーノは初めての恋心を抱いた。その女はブルーノが生まれて初めて見る艶やかな黒髪を持ち、闇夜を連想させるような真っ黒な瞳をしていた。
ブルーノは航志朗より八歳年上だ。ブルーノはイタリアの貴族の子孫で、厳格な家庭に育った。もともとブルーノは理系の大学で学んだエンジニアだったが、画商の父の仕事を継ぐためにエンジニアを辞めて、イギリスでコンテンポラリー・アートを学んだ。偶然にも航志朗と同時期で同じ大学だった。そして、彼らは再会を果たした。
ブルーノは大学で「アンバーアイのハンサムでスマートな日本人の男」の噂を聞いていた。絶対にあの時の男の子だとブルーノは確信していた。ある日、ブルーノは大学の中庭で航志朗を見つけた。そして、航志朗はいきなりブルーノに、「コーシ!」と抱きしめられた。その時、航志朗の隣にいたアンは目を丸くして仰天した。
現在ブルーノはミラノ在住で、彼のギャラリーも市内の中心部にある。ブルーノは車で航志朗を迎えに来ていた。空港からミラノ市内へ向かう高速道路に入ると、どの車もかなりのスピードを出していて、助手席に座った航志朗は大いにスリルを味わった。
「ブルーノ、本当に君の家に泊ってもいいのか。マユさんに迷惑じゃないのか?」
ブルーノはハンドルを握り直し、少し苦笑いして言った。
「大歓迎だよ、コーシ。俺の家は大豪邸だからまったく問題ない。そうだ、マユの話し相手になってくれないか。実は今、彼女、ちょっと体調がすぐれなくて」
(マユさん、もしかして妊娠しているのか)と航志朗はふと思った。
ブルーノの自宅はミラノの中でもひときわ落ち着いたブレラ地区にあり、由緒ある古いアパートメントの最上階にあった。ワンフロアの広いマンションで贅沢な作りだが、ブルーノとマユは意外にも持ち物が少なくシンプルな生活をしている。アパートメントに着くと、さっそくマユが出迎えた。
「航志朗くん、いらっしゃい。自分の家だと思って、ゆっくりくつろいでね」とマユは日本語で微笑みながら言った。
ゲストルームに通されてひと息ついた航志朗は、窓の外の緑豊かな中庭を見下ろした。遠目には大きな公園が見える。この街特有の古代の石像のような匂いがする乾いた空気が航志朗の頬に触れた。航志朗は目を閉じて、また思った。
(もし、今、ここに、安寿が隣にいたら……)
「コーシ! ランチに行こう」と呼ぶブルーノの大きな声に航志朗はゲストルームを出て行った。三人は近所のバールで昼食をとった。さっそく航志朗は本場のピザを注文した。マユはあまり食欲がないらしく、ペイストリーを少し口にしただけだった。帰宅するとマユは仕事をするからと言って、マユがアトリエとして使っている部屋に入って行った。
マユは知る人ぞ知るジュエリーデザイナーだ。ヨーロッパ各地で探したアンティークビーズを使ってエレガントで「カワイイ」ジュエリーを制作している。
リビングルームで航志朗はアタッシェケースを開けて安寿の絵を取り出し、ブルーノに見せた。ブルーノはしばらくその絵を見つめてから、深いため息をついて髪をかきむしった。そして、ブルーノはうめくように言った。
「コーシ、なんだこの絵は!」
航志朗はにやっと笑って言った。
「すごいだろ」
「誰なんだ、この絵のアーティストは。日本人か?」
「ああ。俺の妻だ」
ブルーノは目をむいて驚いた。ブルーノは大げさに天を仰いだ。
「なんだって? あの小さな可愛い女の子が描いたのか。信じられない! ところで、コーシ、この絵のプライマリープライスはどうするんだ?」
「もう決めている。二百万円、いや、一万六千ユーロだ。これ以下では売らない」
「本当にそれでいいのか? 俺だったら、その倍の値段をつけるよ!」
航志朗は腕を組んで小窓の外を見た。外は真っ暗で何も見えなかった。今、自分はどこにいて、どこへ向かっているのだろうか。今の自分の立ち位置を見失ってしまうひとときだ。こんな時、以前の航志朗だったら、めまいにも似た混乱を覚えたはずだ。だが、今の彼は違った。航志朗は知っている。世界中のどこにいても、どこへ向かっていても、最後には帰るところがあると。心から愛する安寿のもとへ。
消灯した機内は低い排気音が聞こえてくるだけで、とても静かだ。そこへ赤ら顔の恰幅のよい男が、イタリア語でプッチーニのアリアを大声を出して歌いながらほろ酔いかげんでトイレに向かっていた。それを見かねた若いレディシュのキャビンアテンダントが、両手を腰に当てて小声でその男に注意した。すぐにその男はしゅんとしておとなしくなった。航志朗はその一部始終を見物して肩を震わせた。
ロサンゼルス空港を出発してから約十四時間後に、航志朗はミラノ・マルペンサ国際空港に降り立った。到着ロビーに出ると、コーヒーブラウンの上品なジャケットを着こなした巨漢の男が大きく手を振って航志朗を出迎えた。ブルーノ・デ・アンジェリスだ。
「コーシ! ようこそ、我がイタリアへ」
ブルーノはオペラ歌手のように大げさな身振りで航志朗を抱きしめて歓迎した。
航志朗は四歳の時に両親に連れられて初めてイタリアを訪問した。その旅の途中でミラノを訪れた。当時、岸と華鶴はブルーノの父が経営していた画廊と取引があったのだ。その時、航志朗は中学校からの帰宅途中に父の画廊に寄っていたブルーノと出会っていた。航志朗にはその記憶がまったくないのだが、ブルーノは航志朗を鮮明に覚えていた。日本からやって来たアンバーアイを持つラファエロの絵から抜け出て来たような小さな男の子を。また、その男の子の母親である美しい日本人女性にブルーノは初めての恋心を抱いた。その女はブルーノが生まれて初めて見る艶やかな黒髪を持ち、闇夜を連想させるような真っ黒な瞳をしていた。
ブルーノは航志朗より八歳年上だ。ブルーノはイタリアの貴族の子孫で、厳格な家庭に育った。もともとブルーノは理系の大学で学んだエンジニアだったが、画商の父の仕事を継ぐためにエンジニアを辞めて、イギリスでコンテンポラリー・アートを学んだ。偶然にも航志朗と同時期で同じ大学だった。そして、彼らは再会を果たした。
ブルーノは大学で「アンバーアイのハンサムでスマートな日本人の男」の噂を聞いていた。絶対にあの時の男の子だとブルーノは確信していた。ある日、ブルーノは大学の中庭で航志朗を見つけた。そして、航志朗はいきなりブルーノに、「コーシ!」と抱きしめられた。その時、航志朗の隣にいたアンは目を丸くして仰天した。
現在ブルーノはミラノ在住で、彼のギャラリーも市内の中心部にある。ブルーノは車で航志朗を迎えに来ていた。空港からミラノ市内へ向かう高速道路に入ると、どの車もかなりのスピードを出していて、助手席に座った航志朗は大いにスリルを味わった。
「ブルーノ、本当に君の家に泊ってもいいのか。マユさんに迷惑じゃないのか?」
ブルーノはハンドルを握り直し、少し苦笑いして言った。
「大歓迎だよ、コーシ。俺の家は大豪邸だからまったく問題ない。そうだ、マユの話し相手になってくれないか。実は今、彼女、ちょっと体調がすぐれなくて」
(マユさん、もしかして妊娠しているのか)と航志朗はふと思った。
ブルーノの自宅はミラノの中でもひときわ落ち着いたブレラ地区にあり、由緒ある古いアパートメントの最上階にあった。ワンフロアの広いマンションで贅沢な作りだが、ブルーノとマユは意外にも持ち物が少なくシンプルな生活をしている。アパートメントに着くと、さっそくマユが出迎えた。
「航志朗くん、いらっしゃい。自分の家だと思って、ゆっくりくつろいでね」とマユは日本語で微笑みながら言った。
ゲストルームに通されてひと息ついた航志朗は、窓の外の緑豊かな中庭を見下ろした。遠目には大きな公園が見える。この街特有の古代の石像のような匂いがする乾いた空気が航志朗の頬に触れた。航志朗は目を閉じて、また思った。
(もし、今、ここに、安寿が隣にいたら……)
「コーシ! ランチに行こう」と呼ぶブルーノの大きな声に航志朗はゲストルームを出て行った。三人は近所のバールで昼食をとった。さっそく航志朗は本場のピザを注文した。マユはあまり食欲がないらしく、ペイストリーを少し口にしただけだった。帰宅するとマユは仕事をするからと言って、マユがアトリエとして使っている部屋に入って行った。
マユは知る人ぞ知るジュエリーデザイナーだ。ヨーロッパ各地で探したアンティークビーズを使ってエレガントで「カワイイ」ジュエリーを制作している。
リビングルームで航志朗はアタッシェケースを開けて安寿の絵を取り出し、ブルーノに見せた。ブルーノはしばらくその絵を見つめてから、深いため息をついて髪をかきむしった。そして、ブルーノはうめくように言った。
「コーシ、なんだこの絵は!」
航志朗はにやっと笑って言った。
「すごいだろ」
「誰なんだ、この絵のアーティストは。日本人か?」
「ああ。俺の妻だ」
ブルーノは目をむいて驚いた。ブルーノは大げさに天を仰いだ。
「なんだって? あの小さな可愛い女の子が描いたのか。信じられない! ところで、コーシ、この絵のプライマリープライスはどうするんだ?」
「もう決めている。二百万円、いや、一万六千ユーロだ。これ以下では売らない」
「本当にそれでいいのか? 俺だったら、その倍の値段をつけるよ!」