バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
 奥様が一歩私との間合いを詰めてきた。

「素人は厚かましいから手切れ金もふっかけてくるでしょう。あなたも何をお望みかしら。社長秘書という名の愛人の地位かしら? 女性の活躍なんて言ってるけど、しょせんはそういうことなんでしょうよ」

「ち、違います。私は……」

 涙が流れ出す。

「もてあそばれて捨てられる。おめでたい人ね。利用されているだけだと気づきもしないなんて」

「利用だなんて……」

「徹也はね、あなたが転んだことを利用してマスコミをコントロールしたかっただけなのよ。入院させたのも、わざと話を大げさにするためだったのよ」

 電話の時に感じた違和感がよみがえってくる。

 直感が正しかったのか。

 私は息ができなかった。

 必死に空気を吸い込もうとすればするほど、のどが詰まって心臓の鼓動が激しさを増していく。

「だ、大丈夫か」

 手を差し伸べようとする社長を私は突っぱねた。

 声が出ない。

 涙だけはあふれていく。

 奥様はそんな私を冷たくにらみつけながら言った。

「さあ、お行きなさいな。ここはあなたのような人がいる場所ではないでしょう」

「すみませんでした」

 頭を下げた私に、奥様の言葉が容赦なくのしかかる。

「自分だけは特別だって、あなた、コロッとだまされたでしょう。調子のいい口説き文句に舞い上がっているようでは、いいようにもてあそばれるだけですよ。あなたみたいな小娘なんて、掃いて捨てるほどいるのですからね」

「やめてくれ」と、社長が奥様に詰め寄る。「俺はそんなつもりじゃない。俺はこの人を本気で、俺は初めて本気で……」

「もう、いいんです」

 私は顔を上げて二人と向かい合った。

「すみませんでした」

 カードキーを差し出すと、奥様はそれを受け取って社長に渡した。

「こんな薄っぺらい物で口説けるなんて、安い女を見つけたものね」

 社長は鈍く光るカードを見つめるだけで、何も言ってくださらなかった。

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