バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
「あなた」と、奥様が私をにらみつける。「もう一つあるでしょう」

 私は社長からいただいた万年筆型の香水スプレーも差し出した。

 奥様はそれを受け取ると、私の顔の前に掲げ、力尽くで折り曲げた。

 パキッと音を立てて真っ二つに折れた残骸がテーブルの上に転がり、無残な姿をさらしている。

「身の程を知りなさいな」

 本当にその通りだ。

 私は奥様の冷酷な忠告を受け止めていた。

 どうして私はこんなに子供なんだろう。

 甘い言葉をかけられると、信じてしまう。

 優しくされると、頼ってしまう。

 仕事でも、なんでも、いつだって、私はそうなんだ。

 私は駆けだしていた。

 気がつくとエレベーターの中で私は声を上げて泣いていた。

「好きだったの!」

 社長も会社も先輩達もみんな好きだった。

 ここが私の居場所だと思っていたのに。

「私、好きだったのに……」

 一階ロビーには家路につくビジネスマンが行き交っていた。

 誰もが私を遠巻きにして去っていく。

 外の空気は湿り気を含んでいて、夜だというのに一気に汗が噴き出してくる。

 振り返って見上げると、夜空に吸い込まれるようにそそり立つオフィス棟の窓に明かりが散らばっていた。 

 下からだとあまりにも遠すぎて、五十六階がどこなのかすら分からない。

 バイバイ、ベリヒル。

 私はこのまま眠っていた方が良かったんだ。

 王子様になんて出会わなければ良かったのに。

 私はただ、夢を見ているだけで良かったのに。

 ただ、好きになってしまっただけなのに……。

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