バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
「ちょっと待ってろ」

 課長は席を立つとカフェマシーンで二人分のコーヒーを作ってきてくださった。

「砂糖とミルクはいらないんだったよな」

「ありがとうございます」

 私は苦いコーヒーに口をつけた。

 課長がカップを両手で包みながら話し始めた。

「十年前、私は新羅ホールディングス本社にいたんだよ」

 ハピネスブライト創業の時のことだろうか。

 新羅ホールディングスは新羅グループを束ねる持ち株会社だ。

「それが、ある日突然、社長のお父さん、新羅孝一郎氏に呼ばれてね。息子の面倒を見てやってくれと頼まれたんだ」と、ふっとため息を漏らす。「目の前が真っ暗になったよ。住宅ローンを組んで家を買ったばかりだったし、まわりからは、ボンボンの会社道楽につきあわされて左遷だって笑われたものさ。なんで私がって、正直怒りを覚えたくらいさ。仕事でミスをしたことはなかったはずだし、自分なりに出世の道を進んでいると思っていただけにね、ショックだったよ」

 課長は自虐的な笑みを浮かべながら珈琲をすすった。

「私も辞表を提出しようかと思ったことがあったよ。まあ、住宅ローンとか、娘の教育費とか、嫁さんのこわい顔とか、いろんなことで思いとどまったけどな」

 温厚な課長がそこまで思い詰めたんだから、相当悩んだんだろう。

「でも、この会社で働き始めてすぐに、自分が間違っていたことに気づいてね。徹也社長はそこらへんのお坊ちゃんとは違ってたよ。従業員には優しく、自分には厳しく、人一倍働く。自分のビジョンを明確に掲げて、そのために自ら汗をかいて会社を発展させていったんだ。私なんかがついて行くのも必死なくらい、がむしゃらに突き進んでいったさ。若さっていうのは武器だなって、レールに乗っかって仕事をするだけだったオジサンにしてみたらうらやましかったよ」

 社長のことを語る課長の顔が晴れ晴れとしている。

「創業時に与えられたストックオプションで住宅ローンも払い終えたし、娘の大学進学資金も用意できた。うちの娘は美術系の大学を目指していて普通の倍くらい金がかかるんだよ。今では社長に感謝してもしきれないよ」

 だから、と言葉を継いで課長が私の退職願を両手で持ち上げた。

「これを預かる理由を知りたいんだ」

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