バイバイ、ベリヒル 眠り姫を起こしに来た御曹司と駆け落ちしちゃいました
一年という時間は無駄に過ぎていたわけではない。
財閥という名家の後ろ盾を失った徹也さんの苦労を私も分かち合っていたし、先の見えない不安もあった。
一方で、何のしがらみもない自由を楽しむ徹也さんの表情はいつも晴れ晴れとしていた。
奥様があの時私に伝えたかったことがはっきりと見えていたのだった。
「名家の格式とか、人から浴びる注目とか、そういった面倒なことに耐えるってことは並大抵の覚悟では乗り切れないものなのよ。心を病んでしまう人もいるし、寿命を縮める人もいる。そんな苦労を、普通の暮らしをしてきたお嬢さんにさせたくなかったのよ」
奥様が柔和な笑顔を見せる。
「でもあなたは、思っていたよりも芯があって、まっすぐで、素敵な人だった。あなたを選んだ徹也のことを私は誇りに思うわ。さっき、こっそり徹也の顔を見て安心したの。七海さん、あの子を支えてくれて、本当にどうもありがとう」
「いえ、私の方が徹也さんに頼りきってます」
蝉の鳴き声が静まる。
奥様が背中を丸めながら語り始めた。
「私はね、若い頃、徹也のお父さんになる前の孝一郎さんとおつきあいをしていたのよ。結婚を考えたこともあったわ。でもね、私、生まれつき卵巣と子宮に異常があって、お医者さんから子供は無理だって言われてたのね。そしたら、あちらの親族から猛反対されてね」
「そうだったんですか」
「私があなたに言ったことはすべてあの時私が言われたことだったのよ」
跡取りを産めないから結婚を許されない。
そんな理不尽なことに耐えねばならなかった奥様の気持ちが痛いほど分かる。
「仕方がないのよ。それが当たり前の、そういう世界もあるってこと。芸能界だって同じようなものでしょう。『国民の花嫁』なんて皮肉な呼び名までつけられてね」
奥様が目のふちに指をあてた。
「それから二十年して、前の奥様がお亡くなりになって、孝一郎さんに再会したの。そしたら、君を守れなかったことを悔やんでいるって、謝ってくれてね」
私が徹也さんに言われたことと同じ言葉だった。
奥様が楠を見上げる。
「でもね、それは私もお互い様だったのよ。私も孝一郎さんを選ばなかっただけ。自分で決めるのを投げ出して、相手のせいにして責任を押しつけていたのよね。私はそれをずっと後悔しながら生きていたのよ」
自分で自分の人生を決める。
それができない世界に縛られる人もいるということだ。
「七海さん、私はあなたのように一番大切な人の手を取って、一緒に駆け出すことができなかったの」
奥様は微笑みを浮かべながらそっとつぶやいた。
「だからね、あなたたちにはあなたたちの道を進んでほしいのよ」
「でも、跡取りは? 徹也さんを財閥の跡取りにしたかったんじゃないんですか?」
アメリカに乗り込んで徹也さんに心得を教えたのはお母さん自身だったはずだ。
「たしかに、そういう心配をしたこともあったわね。でも、もう大丈夫なんじゃないかしら」
朗らかに笑ったかと思うと、奥様は自分に語りかけるようにつぶやいた。
「前の奥様からお預かりした大切な息子ですからね。立派な男に育てないと、顔向けできないって、私も必死だったわよ。でもね、十年前、徹也が自分でハピネスブライトを立ち上げたのを一番喜んだのは孝一郎さんだったのよね。あえて息子から距離を取って見守ろうとしてたけど、そんな必要すらなかったって、あの子の行動力をうらやましがってるわよ」
財閥という名家の後ろ盾を失った徹也さんの苦労を私も分かち合っていたし、先の見えない不安もあった。
一方で、何のしがらみもない自由を楽しむ徹也さんの表情はいつも晴れ晴れとしていた。
奥様があの時私に伝えたかったことがはっきりと見えていたのだった。
「名家の格式とか、人から浴びる注目とか、そういった面倒なことに耐えるってことは並大抵の覚悟では乗り切れないものなのよ。心を病んでしまう人もいるし、寿命を縮める人もいる。そんな苦労を、普通の暮らしをしてきたお嬢さんにさせたくなかったのよ」
奥様が柔和な笑顔を見せる。
「でもあなたは、思っていたよりも芯があって、まっすぐで、素敵な人だった。あなたを選んだ徹也のことを私は誇りに思うわ。さっき、こっそり徹也の顔を見て安心したの。七海さん、あの子を支えてくれて、本当にどうもありがとう」
「いえ、私の方が徹也さんに頼りきってます」
蝉の鳴き声が静まる。
奥様が背中を丸めながら語り始めた。
「私はね、若い頃、徹也のお父さんになる前の孝一郎さんとおつきあいをしていたのよ。結婚を考えたこともあったわ。でもね、私、生まれつき卵巣と子宮に異常があって、お医者さんから子供は無理だって言われてたのね。そしたら、あちらの親族から猛反対されてね」
「そうだったんですか」
「私があなたに言ったことはすべてあの時私が言われたことだったのよ」
跡取りを産めないから結婚を許されない。
そんな理不尽なことに耐えねばならなかった奥様の気持ちが痛いほど分かる。
「仕方がないのよ。それが当たり前の、そういう世界もあるってこと。芸能界だって同じようなものでしょう。『国民の花嫁』なんて皮肉な呼び名までつけられてね」
奥様が目のふちに指をあてた。
「それから二十年して、前の奥様がお亡くなりになって、孝一郎さんに再会したの。そしたら、君を守れなかったことを悔やんでいるって、謝ってくれてね」
私が徹也さんに言われたことと同じ言葉だった。
奥様が楠を見上げる。
「でもね、それは私もお互い様だったのよ。私も孝一郎さんを選ばなかっただけ。自分で決めるのを投げ出して、相手のせいにして責任を押しつけていたのよね。私はそれをずっと後悔しながら生きていたのよ」
自分で自分の人生を決める。
それができない世界に縛られる人もいるということだ。
「七海さん、私はあなたのように一番大切な人の手を取って、一緒に駆け出すことができなかったの」
奥様は微笑みを浮かべながらそっとつぶやいた。
「だからね、あなたたちにはあなたたちの道を進んでほしいのよ」
「でも、跡取りは? 徹也さんを財閥の跡取りにしたかったんじゃないんですか?」
アメリカに乗り込んで徹也さんに心得を教えたのはお母さん自身だったはずだ。
「たしかに、そういう心配をしたこともあったわね。でも、もう大丈夫なんじゃないかしら」
朗らかに笑ったかと思うと、奥様は自分に語りかけるようにつぶやいた。
「前の奥様からお預かりした大切な息子ですからね。立派な男に育てないと、顔向けできないって、私も必死だったわよ。でもね、十年前、徹也が自分でハピネスブライトを立ち上げたのを一番喜んだのは孝一郎さんだったのよね。あえて息子から距離を取って見守ろうとしてたけど、そんな必要すらなかったって、あの子の行動力をうらやましがってるわよ」