交錯白黒

最近は以前より落ち着いて来てはいるが、私がこんなにも橘くんを恐れている理由。

それはいくつかあって、まずは初対面のときだ。

初めて会ったとき、心臓が激しく暴れた。

脳の奥で何かが蠢いて、でもその正体が掴めなくて。

霧の中を手でまさぐっても、はっきりと答えが出てこないという、もどかしい感覚。

今思い返せばこのときの鼓動は、恐怖とは少し違うものだった気がする。

決定的に恐怖に変わったのは、イジメられているときだった。

橘くんは、学級委員長で、正義感が強かった。

女の子が不良に絡まれていたとき、不良を返り討ちにしたなんて噂を耳にしたことがある。

だから、高田さん達も明らかに橘くんの前で私をイジメるのを避けていた。

でもあるとき偶然、イジメの最中に橘くんが現れたのだ。

教室は、いやに静まり返ったが、私は期待で高揚していた。

これで解放される、助かる、と。

でも、橘くんは正義の味方なんかじゃなかったのだ。

「何でそんなに静かになんの」

怪訝そうにそう放ったあと、スマートな足どりで自身の席に座った。

膨らんだ期待の風船を割られた音がした。

私、今高田さんに踏まれて、別の子に髪を乱されて、制服も何か分からない黒い跡がついてるのに。

どうして?

私は……言わなければよかったのに、言わないと自分の気が収まらなかった。

「ど、うして……?」

喉が切られたように痛くて、脳内がじんじんと痺れていた。

あまり話したこともないのに、どれだけ信頼していたか自分でも驚いた。

「どうして、たすけてくれないの?」

橘くんの微動だにしない背中に懇願する。

「ねえ、見たらわかるわよね?橘くん学級委員長なんでしょ?何で無視できるのよ?」

私は高田さんの緩んだ足を払いのけて、勢いよく立ち上がり、叫んだ。

「橘くんだけじゃない……!どうして皆人を傷つけるの!?何で見てみぬ振りできるのよ!私が捨て子だからって何!?私何もしてないでしょ!?」

蓄積された私の怒りの噴火を、クラスメートは呆然と眺めていた。

そんな中、冷静に反論してきたのは、橘くんただ1人。

「親がいるだけいいじゃねぇか。何イジメくらいで喚いてんだよ」

「私は本当の親がいないって言ってるの。親に捨てられた私の気持ちなんてわからない癖に、軽々とそんなこと言わないで。イジメくらいって、何?どんなに辛いか、あんたは知らないのに」

零れた涙を拭うのも忘れ、ただ訴え続けた。

「きっと、円満な家庭で育ってきたから私みたいなのの気持ちも想像できないんだね。自分が幸せだからって。何が学級委員長よ。最っ低」

この頃まだ視界が明瞭だった私は思いっきり大きな背中を睨んでやった。

でも、それをできたのはそこの瞬間で最後となることを、私は知らなかった。

ガン、と背中に衝撃が走ったかと思うと、胸倉は橘くんに掴まれ、血走った目が私を捕えていた。

眉がこれでもかというほど寄り、顔中に皺が入る。

大きく開かれた瞳に宿るのは、爆発した怒り、そして、それに隠されたように垣間見える深い傷。

獰猛な表情に心臓が握られ、呼吸が止まった。

「ざけんな……!」

絞り出したような声と同時に、胸倉が引き上げられ、さらに顔が近づく。

燃えた瞳が、赤かった。

「誰が幸せだって……?気持ちが想像できないって何だよ……!お前、俺の気持ちなんて想像したことあんのかよ!?悲劇のヒロインぶりやがって!!」

言い返したかったけれど、そんな勇気はとっくの前に吸い取られていた。

ただ、その怒りの大きさに震えた。  

……怖い。

「大体お前、人にズケズケものを言って傷つけておいて、自分が傷つけられて助けてだと?笑わせんな!自己中にもほどがあるぜ」

吐き捨てると、私の胸を突き放し、いつもの冷徹な表情に戻って席についた。

ズルリ、と足から力が抜け、その場にしゃがみ込む。

理性を失った猛獣に襲われた気分で、全身が震えていた。

そのあと、この日だけは流石の高田さんも何もしてこなかった。
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