【完】今日、あなたじゃない彼と結婚を決めました
私の頬に短いキスを落とした後、耳元で「行ってくるね」と低く甘い声を出して、彼は会社に出勤していった。
今日は仕事は遅いから、ちょっぴりゆっくり。
食器を片付けて洗濯物をベランダに干し終わって、ごろりとソファーに寝転がる。
淹れたてのインスタント珈琲の香りがふわりと部屋の宙に舞っていった。
’そういえば、珈琲を飲めるようになったのは駿くんと付き合いだしてからだった’
「昔はこんな苦いの飲めないって言ってたのにな」
ぽつりと独り言を呟きながら、温かい珈琲カップを両手で包む。ふぅっと息を何回か吹きかけると、朗らかな匂いが鼻先を突き抜けて行った。
そうだ。あの頃はめっきり珈琲は大人の飲む物だとばかり思っていた。…だから珈琲の飲めない私達はめっきり紅茶派で、コンビニでよく言い合いをしていた。
’ピーチティーが1番美味しい!’
’いや、レモンティーだね’
その言い合いが可笑しくって、パックの紅茶をお互い交換っこして…。
そこまで考えて、何を考えているのだろうとハッとしてしまった。 この思い出を共有したのは、駿くんじゃない。
そんな遥か昔の事を思い出してしまうなんて、どうかしている。もう顔だってぼやけてしか思い出せないのに。
珈琲カップの中からゆらゆらと湯気が白く上がって行く。その靄のようにもう記憶も曖昧だ。
曖昧な記憶など、無かった物と同じだ。自分にそう言い聞かせて、想い出に蓋をするように一気に珈琲を喉に流し込んだ。