情熱

桃子の結婚式が終わって二週間ほどした六月の下旬、蒸し暑い日だった。

貴広からの誘いで仕事帰りに里穂は銀座へ向かった。
梅雨時ではあったが久しぶりのいい天気が気持ちのいい日だった。里穂の胸元まである柔らかな髪の毛は気持ちよく初夏の夜の風に揺られた。

「悪い、呼び出して」
「ううん。大丈夫よ。今はそんなに忙しくない時期だし。貴広こそ忙しいんじゃないの?どうしたの、急に」
待ち合わせの場所に現れた彼は、上質なスーツを着ていて、見るからに立派な社会人だった。
身長は180センチほどの彼は全身のバランスがとてもよくスタイルがいいので、もっと背が高く見えるし、こういうきちんとしたファッションを上手に着こなせる。清潔感とセンスのよさが両立している、というのだろうか。いつもは冗談ばかり言っていてもさすが商社マン、と思う身だしなみだった。もともと顔立ちだってはっきりしていてハンサムなのだ。

出版社に勤める里穂は普段はラフな格好をしているが、帰りに飲みに行くとなれば、ちょっといい靴を履いて綺麗な服を着てみる。それは相手が貴広に限った話ではなく、宗一郎であっても、または桃子でも、他の誰であってもそうしただろう。

しかしながら、考えてみたら、こういう機会、貴広と二人で出かけるなんてことは初めてだと思った。みんなで集まって、何かの用事で貴広と二人きりになることはっても、こんなふうに呼び出されて二人でお酒を飲むなんてことは、これまでにないことだった。

軽く飲みながら話そう、と言って訪れたビルの八階のテラスは和光と三越の交差点を見下ろせる眺めのいい場所だった。
怖くもなく、眺めも良く、ちょうどいい。
いいお店を知っているのね、と里穂が言うと貴広は、目に入っただけと笑った。
こういう相手に気を遣わせない丁寧さは、貴広も宗一郎も両方が持っていた。似ていないと思う二人だったが、彼らはそういう点でとてもよく似ていた。

「話って何なの?」と急かす里穂に、まずは1杯飲んでからと貴広は言った。彼はお酒が好きだし強い。里穂はキールを、貴広はマティーニを頼んで乾杯とグラスを傾けた。こういうとき、簡単にビールを頼んだりしない、彼のそのセンスが好きだ。

一杯目のカクテルを飲み終わる前に貴広が言った。
「イギリス、一緒に来て欲しいんだ」
再び口をつけようかなと思ったグラスを手に持ったまま、里穂は視線を貴広に向けた。彼はこれまで見たことがない真面目な顔をして言った。ただ無言でその顔をじっと見る里穂に貴広は続けた。
「まだ半年以上先なんだけど、来年、ロンドンに行くことになって、予定では五年。結婚して、一緒に来て欲しい」
真剣な顔をした貴広を見ていたくなくて、数秒の後、里穂は軽く笑って言った。
「ドッキリ番組?」
「違うよ。しかもその発想、なんかすごい古臭いな」
そう言うと、貴広も笑って、今まで通り、という感じがして里穂は安心した。

やめて欲しかった。桃子が結婚したばかりで、ただでさえ身の回りの変化にナーバスになっているというのに。かき乱さないで欲しい、と思った。

貴広はまた仕事をするような真面目な顔つきをした。
「海外赴任の話は本当なんだ。そりゃ、一人で行くことだってできるよ。でも、里穂に一緒に来て欲しいんだ」
「何を言ってるの。ついて行きたいっていう女の子なんてたくさんいるでしょう」
「そりゃあ、うちの会社の女の子たちだって、そういうの狙っている子はいるよ。ましてロンドンだしね。でも違うんだ。里穂がいいんだ」
「手身近なところで済ませようと思っちゃだめよ」
「そうじゃないんだって」
どうしたらわかってくれるのだろうと言うように、貴広は大きくため息をついて項垂れた。彼が本気だということを、里穂がわからないはずはなかった。でもごまかしたかったのだ。とてもではないが、今、すべてを受け止めることはできなかったのだ。
そのあと、貴広は食事に行こうと誘ってくれたが、里穂はお腹が空かないと断った。とても食事なんてする気になれなかったのだ。それならもう少しだけここで一緒に飲もうと彼は言い、里穂は困ったように微笑んで、少し悩んで、頷いた。

クラブハウスサンドとピクルスをつまみながら、二人で銀座の街を眺めた。無数の人が行き交う。眩しくて目を細めてしまう東京のきらめき。いつもおしゃべりな貴広が静かにしているのが変な感じだった。

二杯目のカクテルを二人で飲んでいるとき、貴広が言った。
「今度、きちんと食事しよう。連れていきたいお店が色々あるんだ。だからそのときはちゃんとお腹を空かせておいて」
デートしよう、と言ってくれているのだと里穂はわかった。初夏に出回り始めたばかりの桃を使ったベリーニは、里穂の手元でまるで初恋のように淡いピンク色を儚く輝かせていた。

「私、どうしたらいいのかしら。わからないわ。私たち今まで友達だったのに」
素直な気持ちだった。眉を八の字にして、若干情けないような顔をして微笑む里穂に、貴広も困ったように笑った。
「いきなり、悪かった。困らせたいわけじゃないんだ。でも。俺の中ではずっと思っていたことだったから。いつもさ、海外に赴任するときは一緒になんて言っていただろう?またバカなこと言ってるくらいにしか思ってなかっただろうけど、俺の中では本気だった。そりゃ、彼女とか、色々いたよ。でも結婚してずっと一緒にいるなら里穂がいいと思っていた。でも真剣になんて、間違っても言えなかった。あの場の雰囲気とか、関係を崩したくなかった。だからどうしてもきっかけが必要だったんだ。」
あまりにも切実に彼が訴えるので、里穂はまた表情を曇らせた。いつも明るく周囲を笑わせてくれた彼が、こんなに切ない顔をして自分を求めていることに、胸が痛んだ。

「大丈夫よ。わかるつもり、ちょっとだけど。いろんなこと、なんとなく、ね」
心に浮かんだ言葉をぱらぱらと口にして、本当にこれが日本語を扱う仕事をしている人間の発言だろうかなんて思いながら、里穂は少し笑った。
ありがとう、と言って、貴広は控えめに笑って、そして言った。
「宗にはもう、全部話してある」
その言葉に、里穂の表情は一瞬だけ固まる。全部というのが、海外に行くことなのか、この夜のことなのか、確認したいのにできなくて、里穂は残っていたグラスの液体をゆっくりと口に含んだ。
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