麗しの彼は、妻に恋をする
――都会の生活なんて、私には無理。
そんなことを考えながら、柚希は地下鉄の中で揺られていた。

右に立つ女性のきつい香水の香り。左に立つスーツの男性の少し汗ばんだような匂い。
混み合った電車の中で、鼻がもげそうだと思いながら人知れずため息を漏らす。

――そういえば冬木さんは、いい匂いがしたなぁ。

彼の顔が近づいた時、ほんのりと微かに感じるだけの爽やかな香りがした。

やけに陽気でスマートな人だった。

――愛人の話が、もし冗談ではなかったとしたら?
うーん?
実際のところ、愛人とはどういうことを言うのだろう。

肉欲と金銭だけの繋がり?
ラ・マン。
やくざの情婦……。
お代官様の妾……あーれー。

なにやら淫靡な響きである。

戸籍上は他人の、日陰の存在。
これは問題なし。
なにしろ元々田舎暮らしのひきこもりなのだから同じようなもの。

考えてみれば今後、恋をする予定だってない。

そもそも自分自身の面倒をみることすらままならないのだから、結婚なんて無理だ。

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