翳踏み【完】
「まじで、いいの?」
「ぜんぜん、気にしてない、です……」
「じゃあ菜月って呼ぶけど」
「はい、どうぞ……?」
「俺、慣れ慣れしくない?」
ついさっきまでまるで自分の彼女のことを言うみたいに私を呼び捨てにしたくせに妙なことを気にするから少しおかしい。
心臓は相変わらず恋を主張していて、私の思考回路はとっくに夏に浮かれている。じっとりと汗が滲む、暑い美術室の中で、さっきとは比べ物にならないような優しげな瞳で私を射抜く彼が好きだと思った。
「少しも、馴れ馴れしくないですよ」
小さく笑ったら、彼は私以上の笑顔と一緒に私の名を呼んだ。
「俺のことも、夏希でいいよ」
「さすがにそれは」
「えーじゃあせめて更科先輩やめて」
「じゃあ、夏希先輩……、ですか?」
「うん、まあ……、今はそれで許す」
まるで普通に恋愛をしているみたいだと思えて笑った。こんなに素敵な人が私を好きになるわけがないのに、思い上がりだ。自嘲する笑みを隠すように俯いて、自分の靴の先を見つめた。俯いてばかりの人生で、先輩だけが異物だった。
「菜月」