翳踏み【完】
「えっ」
そんなことなさそうなのに、あんまりにもあっさりと言われて虚を突かれた。
「でもね、お父さんと出逢ったことを後悔したことはないよ。いつだってお母さんの後悔は、あの時お父さんに、きちんと伝えていればよかったなあ、って、そればっかり」
「きちんと伝えていれば……?」
「そう、こんな私じゃダメだとか、到底似合わないんだって思って、自分の本当の気持ちをずーっと秘密にしてたけど、それはただ、現実と向き合うのが怖くて、言えなかっただけなんだなあって、今は思うの。……だから、菜月も、本当に好きな人ができたら、きちんと「すきです」って、言ってぶつかってね」
まるで私が抱えている問題を知っているみたいに笑って、もう一度頬を撫でた。「明日は行けそう?」と小さく問われて、首を縦に振る。
どうせもう一緒に居られないのだから、最後くらい、本当の気持ちを打ち明けたっていいだろう。
次の日の朝も、夏のぬるい風が頬を撫でていた。学校に向かうために玄関のドアを押し開いた私を、母は笑顔で送り出してくれた。きっと、もう先輩に笑ってもらうことなんてないだろうけれど、精一杯の私で向き合おうと決めた。
髪を切って、少しだけお化粧もした。今までなるべく目立たないようにと思っていたけれど、それはもうやめる。先輩に少しでも可愛いと思ってもらえるように、自分なりに努力した。きっと後悔しないように。
校舎の校門まで歩いてきて、立ち止まる。ホームルームまではあと30分ほどだ。その時間をずっとこの炎天下の中外で待っているなんて馬鹿げているかもしれないけれど、私にはこの方法以外浮かばない。