翳踏み【完】
「菜月の事」
当然のことのように言った先輩が、なぞる様に私の唇に触れる。それだけで背筋が震えた。しらない感覚をまざまざとぶつけられているようだ。
心と体が乖離する妙な感覚に耐えられなくなって顔を俯かせれば、頭上からまた先輩が嘲笑する音が聞こえた気がした。
「せんぱい、ほんとうに、昨日からへん、です」
「変? どこがだよ」
「だって、こんなこと……」
「俺の彼女だろ」
「ほんき、なんですか」
「さぁ? 本気だと思えねえんなら違うんじゃねえの」
言葉と表情があまりにも正反対だと思った。どこまでも冷たいことを言っているのに、胸が苦しくなるくらいに切ない顔をしているような気がする。それが気のせいだというのなら、先輩はとても演技が上手い人だ。
「手加減しねえって言っただろ」
「は、い」
「どうやっても信じられねえんなら、俺のやりてえようにする」
「言っとくけど、俺は優しい男でも気の長い男でもねえから。嫌がっても放さねえし、泣いてもやめてやんねえ」
どこまでも真っ直ぐに両目を突き刺す視線が、私を捕らえる。逃げられないと思った。狂気的な色が浮かぶ声に言葉を失くしてへたり込む。私を追うように、先輩が目の前にしゃがみ込んだ。名前を囁かれて、心がざわめく。
ふいに先輩の手が私の頬をなぞる様に触れる。乾いた涙のあとを、慰めるような指先だった。
「信じなくていい。勝手に閉じ込めるから」
私は何を間違えたのか。