翳踏み【完】
「菜月っ」


それが触れなかったのは、ついさっきとは打って変わって焦った様な先輩の声が耳にぶつかってきたからだ。振り返るよりも早く腕を引かれる。

言葉を発する暇もなく引き摺られて、遠ざかる楽間くんが呆然としているのを見た。何を感じて良いのかわからない。どうしてここにいることを知られているのかもわからない。どうして、そんなに必死なのかも、わからない。


「せんぱ、い」


引き摺られる腕が少し痛い。主張したわけでもないのに、先輩が私の腕を握るのをやめて、いつものように指先を掴まれた。何も言わない。それはあの夜の先輩みたいだった。私が先輩を酷く傷つけた日だ。


「せん」

「入れ」


私の言葉を当たり前に遮った。そのまま私の体を押しこんで、先輩も入ってくる。空き教室の内鍵を閉めた先輩が、呆然とする私に目を合わせた。その瞳に、また苦しみが浮かんでいた。


「惚れてんのか」


主語も何もない言葉に、返すべき声が見つからない。私はいつもそうだ。先輩の前に来ると、何を言っていいのかわからなくなってしまう。何も言えずに見つめていれば、今度こそ顔を顰められた。


「そんなにアイツが良いのか」


眉を顰めた先輩の言葉に、楽間くんが浮かぶ。瞬時に違うと思って首を横に振った。それさえも自嘲する先輩に、どうしたらいいのかわからなくなる。

どうしてこんな風に傷つけているのだろう。あの女の人が好きなんじゃないの。どうして私に構ったりするの。

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