身熱
硬い階段を降りる。

チャイムの余韻が残る放課後の学校は七月終わりの蒸し暑さで満ちていた。




_夏休みまであと何日だっけ。





タン、タン、タン、と自分の靴音だけが響く。










オレンジに透ける玄関。



君は、段差に腰をかけて微睡みの中にいた。

閉じられた瞼、長い睫毛が風の中を泳いでいる。


柔らかそうな栗色の髪、綺麗な横顔、君の寝息。




ここだけが時間が止まったみたいだ。





_ああ、

このまま世界が終わってしまうのも、悪くない。





そよぐ癖毛にふわりと触れる。





「ん」





君は目をこすって浅い眠りから覚醒する。





「俺のこと待ってた?」





顔も見ずに素っ気なく言った。できるだけ自然に、さりげなく。


待っていてくれるなんて思ってもいなかった。



嬉しさから笑みがこぼれそうになっていることに



君は気付かない、

俺は気付かせない。



靴を履き替える。

踵の潰れた上靴を靴箱に仕舞った。



隣でリュックを背負い直しながら


「もちろん」


なんてあくび半分に笑う君の声には裏も含みもない。





それが愛しくて、なんだか哀しくなった。










外は喧噪。

エンジン音と烏、五月蠅い心臓。




他愛のない言葉達は夕に溶けてしまう。君の笑い声が心地いい。





「こっちの道、歩いたことある?」


いたずらに笑う君。




首を振る俺を見て、君は得意げに微笑む。


君は爪先の向きを変えた。










いつもとは違う道と、君の後ろ姿。


学校指定の白いポロシャツに反射する夕焼けが眩しくて、君を見ることができない。

俺の頬にも朱が差して、じんわりと熱くなる。


街の噪音を忘れそうな大きな道が遠くまで続いている。





東京の外れに、

君と二人だけ。





_誰もいなくなってしまったのだろうか、





そんなはずはないけれど

胸にあるのは漠然とした不安。



なんとなく途切れた会話は宙ぶらりんのまま、

溶けた言葉も、募る想いも、元に戻ることはなくて。




縁石の上を慎重に、それでいて軽やかに歩く君。

歌を口ずさんでいる。流行りの歌だ。何度も同じところを繰り返す。





君が好き。

これを伝えるにはまだ言葉が足りな過ぎるから、


君の鼻歌で夕刻の空を見上げた。





_いつか、空に堕ちるのだろうか。





果てしない橙色と、杞憂。










曲がり角に差し掛かる。

いつものバス停が、遠くで長い影を伸ばしていた。



君は爪先から縁石を降りる。

廻り廻った鼻歌も、もうエンディングだ。




ビュウと強い風が西から吹きつけた。

思わず俯いてしまう。


風の音、俺のズボンの裾が揺れる。




暫くして、顔を上げると君は風上を見て眩しそうに目を細めていた。


緩く吹く熱い風に靡く、柔い前髪と、ポロシャツの襟。

それらが俺の鼓動を速める。




日に照らされる横顔。


君の零れてしまいそうな大きな瞳と目が合った。




君はバス停と違う方に人差し指を向けると、


眉を下げて、



「じゃあ、こっちだから」



と寂しそうに言う。



俺は


「うん、じゃあ」


と軽く手を上げて答えた。










一人、歩き出した。


小さかったバス停がだんだんと近くなる。

奥にバスが見えた。



バス停と俺の影が重なった時、





俺の名前が空気を揺らした。


君の声だ。




振り返る。

縁石を降りた君の足はそのまま動いていなかった。



手をメガホンのようにして君が叫ぶ。





「また明日」

そしてもう一度俺の名前を呼んだ。



君の声が大きな波のように押し寄せて、俺の心を侵していく。


脳にじんわり広がる心地よい嬉しさとは裏腹に、

心臓はより速く脈を打つ。



俺も手でメガホンを作った。





「また、明日」





叫んだはずなのに自分の動悸にかき消される。


息を吸う、

熱を帯びた酸素が肺に深く入ってきて、苦しい。




君の名前を呼んだ。




夕空に木霊する。







_俺の波は君に届いているのだろうか。


二人の波形が重なることはあるのだろうか。








ないことは分かっていても、願わずにはいられない。





「おう」





と、君は



喉仏を上げながら



俺より少し大きな手をひらひらと振った。




君の


低い声に


また、心臓ごと包まれる。





プシュー、と間抜けなブレーキ音がすぐ隣で聞こえた。












俺たちにはまた、いつも通りの明日が来る。
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