その背は美しく燃えている【中編】

出会う



 その日、佐野は明日提出であるにも関わらず未完成のままの課題を持って帰るべく、美術室に足を運んでいた。最近渡り廊下を闊歩している噂に多少恐怖心がくすぐられはするが、別にその程度であり、小学生のように駄々をこねるような真似はしない。間延びした挨拶もそこそこに美術室の扉に手をかけて、横へ引っ張る。立て付けの悪さを強調する音が鼓膜を引っ掻く。反射的に目を瞑ってしまった。この音はどうにかならないのかと、不安が蓄積するが、ため息に変換することで気持ちを切り替える。

 不思議なことに、室内には誰も居なかった。真っ暗な空洞がそこにはあるだけで、美術部員はもちろんのこと、先生の影すらなかった。腕につけた時計を見れば、五時半を指している。まだ終了時間は遠い。今日は火曜日だが、美術部の活動日だということに変わりはない。制服の裏の背中をくすぐって、ねばねばした汗が、虫のように流れ落ちていく。


「ねぇ、君」


 姿は見えないけれど、少女特有の細くて綺麗な響きを持った声が聞こえてきた。空間からの突然の呼び出しに佐野は面食らう。そんな彼のことなんてお構いなしに、教室内を一陣の風が遊び回り、薄いカーテンの隙間から月の明かりが洩れ出る。その瞬間、水底のように浮き上がった室内の中心に、指先までたっぷりと月光を含ませた少女を捉えた。

 これは、悪魔だ。直感的にそう思った。今すぐにでもこの教室を出ようと後ろを振り返るが、時すでに遅し。いつのまにか閉じていた扉は、冷たい現実を突きつけていた。


「ちょっと待って。逃げないでよ」


 恐る恐る視線を戻す。あろうことか少女は佐野との距離を近づけていた。今すぐ彼女と距離を取りたいのに、身体中凍ったようで、佐野は棒立ちになってしまう。足から背へ、言い知れぬものが、ぐわりと這い上ってくる。ついに少女の手が佐野に触れた。意外にも彼女の手は暖かく、悪魔的というよりか、人間性に満ちているようだった。しかしその感触より恐怖が勝り、喉の奥に綿が詰め込まれたままのような声が出る。少女はクスリと笑った。唇が「ごめん」の形を作り、手が離れていく。


「そういえば私、悪魔だった」


 その言い方に、佐野の冷静な部分が違和感を覚えた。まるでそうではないのに、無理矢理納得しているようなニュアンス。諦めが滲んだそれは、少し心当たりがあった。
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