呉服屋王子と練り切り姫

将太君の優しさ

「明日5時に、ここに来い」

 着物からとりあえず仕事の制服に着替えた私は、彼にそう告げられた。そこで初めて、冷静になった。

「なぜ私がご一緒しなければならないのですか! 私には仕事が……」
「それなら安心しろ、鶴亀さんには話をつけてある。お前は明日明後日、有給休暇だ」
「はぁ? 何を勝手に……」
「不満なら……そうだな、お前の給料の日割りの10倍の報酬をやる。それでどうだ?」
「お金の問題じゃありません! そもそもなぜ私がこんな目に……」
「あの時、玲那の手がどうしても離せないと言ったのはお前だろ、モナカ」
「私は『まなか』です!」
「それにゲーン夫妻に気に入られちまったんだから仕方ねーじゃねえか。俺だってお前と恋人ごっこなんかしたくねぇよ」

 毒づいた私に毒で返す甚八さんに、私の腸が煮えくり返る。

「そもそも最初のときだって報酬はやるからついて来いって勝手に……」
「その報酬ならやっただろ、よだれ垂らすほど食いたかったんだろ、自分の店の練り切り餡」
「う……」

 あれが報酬だったのか。確かに、あの店で働いているだけでは絶対に口にすることはできない高級品を、私は頂いてしまった。しかも、彼の点てた抹茶の苦みと一番に合う気がして、素直に最高の組み合わせだとか思ってしまった。

「ともかくだ、明日ここに朝5時な」
「5時は無理です!」
「はぁ? この期に及んで起きれねえとか言わねえよな?」
「そんな時間に始発があるわけないじゃないですか! タクシー代だってばかにならないのに……」

 甚八さんはキョトンとした。

「どうせ庶民の感覚なんて呉服屋のお坊ちゃまにはわからないでしょうけど……」
「なら、俺んちに泊まれば?」

 私の声を遮って彼はいたって真面目な顔で、そう言った。

「俺んち、すぐそこだし。俺、朝弱くねぇから起こせるし」
「はぁ?」
「俺んちっつってもあれな、ゲストルームな。間違っても俺の部屋には一歩も踏み入らせねぇから安心しろ」
「は、はぁ……」
「とりあえず着替えて来い。従業員通路で待ってる」

 私はそのまま通路にぽいっとつまみ出された。どうやら、彼のゲストルームに泊まる以外の選択肢はなくなってしまったらしい。私はトボトボと、自分の店のロッカーまで戻るのだった。
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